バタイユほどの頭脳が現実に「ナマ」を体験しなければならない程のヘーゲルの縛り。

僕は 「気持ち悪い爺さん」 だそうで、
それは容姿ではなく、頭のなかだそうです。
よく庄田さんから、『一回カチ割らないと、駄目かもしれん。』 と言われていました。
僕の答え:
「一回、カチ割ったら、だっこだらけで不気味ですね。」 です。
だっこ=中身の内臓と言うか?気持ち悪い正体のことを言う金沢弁ですぅ。つまり、蛙を踏み潰したらグニュって!GNU ではありません。

僕は絶対に理論的な人間では無いです。理論というものは
「気持ち悪い」 とさえ、思っています。
(論理は極北で・な・け・れ・ば・個性と出会わない。)

デリダさんへ到達?するためには、どうしても、レヴィナスさんを廻らなければならないようで、
若干気落ち気味です。
「それしかないのかよぉ………」 そんな感じです。

「人類の永遠の課題」 は、永遠なわけで、そのうぅ………それは、それなわけで………
恍惚の瞬間に 「個」 を意識しなければ 「死」 が見えない、というのは、
僕はある種の不幸だと思うのです。

デリダさんの話をする場合、
スピノザさんとバタイユさんは不可欠なんです。
「匿名」 で・し・か・語れないものにしか、真実は無い、みたいな………そうでも無いみたいな。
僕は、「死靈」 みたいな感じで、名を成そうが成すまいが、ハイデガー的な意味で?
「軸」 の 「苦笑い」 みたいに、どっちゃでも関係あらへん。
つまりは、
「情報を得るための銭の専有」 が、問題だと言っている、だけ、なんですけどね。

僕は全ての翻訳者に感謝の気持ちを忘れずに引用を続けます。
こうでもしないと、誰も本を読まん?げえちゃ!

本は買わないと、僕の 「意志」 は解りません。

「はめ手」 は、アホな政治家が組めるようなものではない、という電話をしていた、まったりとした午後。
金沢市議会の会議から憮然とした表情で出てきた日本共産党の議員の気持ちが少しだけ伝わっています。
僕はボルシェビキは、国会議員の3分の一ぐらいにならないと当てはまらないと思っています。
何に?当てはめるのでしょうか?
皆さんでお考え下さい。

はははははははははははははははははははははははははははははははは。

僕は、思考停止ですぅ………
解らない 「言葉」 が出てきたら、右クリックでグーグル検索をしましょう!
ははは。
メモ帳で出来たら、ネットに載せないだろう、僕、ハイパー・絶望・絶倫技

 

バタイユさんの引用ここから>>

「衛生学的・教育学的宗教」ドイツの新-汎神論

国家社会主義が詩的であるという伝説をもたらしたのは、ドイツの「新-汎神論」である。
人種差別主義は、こうしたエキセントリックな宗教形態に行き着くことではじめて、ドイツ思想の生気論的で反キリスト教的なある種の潮流を表現することができた。

この神秘主義的潮流は、ロマン派の偉大な時代以降、バッハオーフェンやニーチェや、近年ではクラーゲスなどの著作で表現されてきたものだが、それを現在のドイツで形をかえてあらわしているのが、いくぶんか混沌として、ただし組織化されたひとつの信仰であることは確かである。
この潮流は、かつていかなる統一性も持ったことはなかったが、理性よりも生に高い価値を置くことと、キリスト教に原始的宗教の諸形態を対立させることを際だった特徴としていた。
国家社会主義の内部で、ローゼンベルクは現在、そのもっとも穏健な傾向を代表している。
彼よりもはるかに過激な理論家-予言者たち(ハウアー、ベルクマン)は、レーヴェントロー伯爵のあとをついで、教会組織に類似した文化組織をつくろうと企てている。
この企てはドイツではあたらしいものではない。
ドイツには、「ゲルマン信仰の共同体」なるものが一九〇八年から存在していたし、ルーデンドルフ将軍自身が、一九二三年以降、ドイツ教会の首座になることを望んでいた。
ヒトラーによる政権奪取のあと、既成のさまざまな組織は自分たちの目的が共通していることを会議で確認し、団結して「ドイツ信仰運動」を組織した。

しかし、新宗教の信奉者たちがロマン派的な興奮を、ローゼンベルクの狭隘(きょうあい)でひどく軍隊的な諸制約によって縛ろうとしないということが事実であるとしても、にもかかわらず、彼らは一つの点で、つまり反キリスト教が宣言され、生が神格化された以上、彼らの唯一の宗教は民族であり、すなわちドイツであるという点で一致しているのである。
かつてプロテスタントの宣教師であったハウアーは叫ぶ。

「美徳はただ一つしかない。つまりドイツ人であること!」

そして精神分析と「衛生学的宗教」に熱をあげる奇矯なるベルクマンはこう断言する。
「ナザレのイエスは、民衆を癒す医者であり慈善家であって、いまだに誤った理解によって釘付けにされている十字架から彼が降りてきて、今日彼が戻ってくるとしたら、彼は民衆の医者として、民族の衛生学の理論家として、戻ってくるだろう。」

国家社会主義が、伝統的で敬慶主義的な狭隘さを脱してむかうのは、みずからの精神的貧困をいっそう確固たるものにする道だ!
新しい信仰の信奉者たちがおこなう儀式では、ツァラトウストラの章句が朗読されるという事実、それはこの喜劇を決定的に、ニーチェ的要請から遠く離れた位置に、いたるところでわれわれをうんざりさせる大道芸人たちのもっとも卑俗な弁舌の位置に置くのである。

最後につけ加えなければならないが、第三帝国の指導者たちは、この雑多な運動を支援することに乗り気ではない、ますます乗り気ではなくなっているように見えるということだ。
自由で、反キリスト教的で、ニーチェ的相貌をまとった熱狂が、ヒトラーのドイツでどのような地位を占めたかの一覧表は、したがって最後には恥ずかしい終わり方をするのである。

より学者的に

残る問題は───おそらくこれがもっとも深刻だが───、アルフレート・ポイムラー氏の首尾一貫した企てである。
彼は疑いの余地のない博識と、ある種の理論的厳密さを用いて、政治的ニーチェ主義を作りだそうとしたのである。
ボイムラーの小冊子 『ニーチェ、哲学者と政治家』 は、レクラム版で非常に多くの部数が発行されたのだが、この著書は、ニーチェ的な諸矛盾の迷路から、民衆が共通の力への意志によって一つに結びつくという理論を取り出した。
こうした仕事はたしかに可能であり、それがおこなわれることも不可避であった。
それは全体として、鮮明であたらしく、見事に人工的で論理的なニーチェ像を描き出す。
あるときニーチェがこう自問したと仮定してみよう。

「わたしが体験したこと、わたしが気づいたこと、それは何のために役立つことができるだろうか。」
これが実際、ボイムラーがニーチェに代わって問うた問いであるように思われる。
そして、存在しないもののために役立つことは不可能だから、ボイムラー氏は必然的に、彼が直面している実在に、ニーチェも直面したにちがいない実在に、両者ともが生まれによって帰属を定められている共同体の実在に、注意をむけたのである。
このような考察は、作られた仮説がニーチェの精神のなかで意味を持ちうるのであれば、正しいということになろう。

ただし、もう一つの仮定も可能である。
つまり、ニーチェが体験したこと、ニーチェが気づいたことを、ニーチェ自身は他の何かに役立つものとしてではなく、それ自体を目的とするものとみなしていたはずだという仮定である。
プロイセン国家が(精神)を実現することをヘーゲルが期待していたのと同様に、ニーチェは、ドイツをさんざん罵倒したあとで、そのドイツがツァラトウストラに現実の肉と声を与えるのを漠然と期待していたということは、ありうることである。
しかし、ボイムラー氏の知性は、ベルクマンやエーラーのような人物のそれよりも厳密であって、滑稽すぎる想像は排除したように思われる。
彼は、ニーチェが手段としてではなく目的として体験したことがあまりにも明らかなものは、すべて無視することが適切であると考えた。
そして彼は、実証的な指摘を重ねることで、それをあからさまに無視したのである。

ニーチェが神の死を語ったとき、彼は、内的体験による激しい消耗を証だてるように、混乱した言葉を使っていた。
ボイムラーは書く。

キリスト教に対するニーチェの態度を正確に理解するためには、「神は死んだ」という決定的な言葉が歴史的事実の確認という意味を持つことを、けっして忘れてはならない。

ニーチェは、永劫回帰のビジョンが最初に立ち現れたときに、彼が何を感じたかを措写して、次のように書く。
「わたしのさまざまな感情の激しさは、同時にわたしを震わせ笑わせた……それは感傷の涙ではなかった、それは歓喜の涙だった……」

実際には、とボイムラーは断言する、永劫回帰の観念はニーチェ体系の観点からは重要さを持たない。
われわれはそれを、高度に個人的な体験の表現とみなさなければならない。
それは力への意志という最重要の考えとはまったく無関係であり、それを真面目に受けとめると、それは力への意志の一貫性を壊してしまう可能性さえあるのである。

劇的な表象のかずかずがニーチェの生に、引き裂かれ、激しい戦闘に巻き込まれた人間的実存という性格を与えているが、そうした表象すべてのうちで、永劫回帰の観念はたしかにもつとも接近困難なものである。
しかし接近することができないということから、真面目に受け取らないと決断することのあいだで越えられた一線は、裏切り者の一線である。
ムッソリーニはかつて、ニーチェの教義は力への意志の観念に還元されえないと認めていた。
裏切りにまで追いつめられ一線を越えたボイムラー氏は、その同じことを比類ないほどの明白さで認めたことになる。
なにしろ彼は、白日のもとで[ニーチェを]去勢=骨抜きにしたのだから……

「わたしの子供たちの国」

ニーチェの思想を利用するためには、まず最初に、彼の熱情的体験の全体がシステムに対置され、システムにとってかわることが要請される。
ただしニーチェの要請は、これにとどまるものではない。

ボイムラーは、〈革命〉の理解と神話の理解を対立させる。
つまり彼の考えでは、〈革命〉の理解は未来についての意識に結びつき、神話の理解は過去についての鋭敏な感情に結びつくのである。
ナショナリズムが過去への隷従を含むことはいうまでもない。
レヴィナスはこの点に関して、『エスプリ』誌に発表された論文のなかで(一九三四年十一月一日、一九九-二〇八頁)、とくに人種差別主義について、彼の仲間たちよりも深い哲学的表現を与えている。
ここにそのもっとも重要な部分を引用するが、これを読めば、ニーチェの教えとその後世の繋がりとのあいだの深い対立が、おそあく相当あからさまに浮かびあがるだろう。
レヴィナスは書く。

西洋的精神がいつも満ち足りぬ思いをしてきたこの身体感情が重要視されること、そのことが人間についての新しい生物学的概念の基盤にある。
生物学は、それが内包する運命性のすべてとともに、精神生活のたんなる対象以上のもの、その心=中心となる。
身体が謎めいたやり方で媒介してきた血の神秘的な声、遺伝と過去からの呼びかけは、絶対的に自由である〈自我〉に解決がゆだねられた諸問題という性質を失う。
〈自我〉は、これらの問題を解決しようとしても、問題の未知数そのものをもたらすだけである。
〈自我〉はむしろ、それらから構成されているのである。
人間の本質をなすものは、もはや自由ではなく、ある種の繋がり=束縛(アンシューヌマン)である……これ以降、身体に関して解放を告げ、身体を拘束しないような社会構造はすべて、事実の否認や裏切りのように疑わしいものになる……精神がこのように具体化されると、そこから直接的に血縁関係を基盤とする社会という考え方が帰結する……複数の精神のあいだのいかなる理性的同化も、いかなる神秘的交感も、それが血の共同性に基づくのでなければ、疑わしいとされる。
そして、あたらしいタイプの真理は、真理の形式的怪格を失うことも、普遍的であることをやめることもできないだろう。
真理は、わたしの真理───この所有詞のもっとも強い意味において───であるとしたら無価値である。
それはあたらしい世界の創造にむかわなければならない。
ツァラトウストラは、自分自身の変貌に満足することなく、山から降りて福音をもたらすのだ。
普遍性はどのようにして、人種差別主義と両立することができるだろうか。
そこには、普遍性の観念それ自体についての根本的な変更があるのだろう。
その観念は拡張の観念に席をゆずらなければならない。
というのも、力の拡張は、観念の普及とはまったく違う構造を示すからだ……現代ドイツが再発見し顕揚するニーチェの力への意志は、たんにあたらしい理想なのではない。
それは、みずからに固有の普遍化の形式-戦争、征服-を同時にもたらすような、そうした理想なのだ。

レヴィナスは、論理を正当化しょうとする配慮なしに、ニーチェ的態度と人種差別主義的態度を同一視しようとするのだが、じつは、彼はたんに、それらが両立不可能であり、まったく相反する性格をもってさえいることを、そう意図しないままに、明々白々にしているだけなのである。

血縁共同体と過去への繋がりは、かりに結びつくとしてもそれは限りなく遠い結びつきであり、「祖国を持たぬ者」の名を誇らしげに自称していた人間にとっては、視野の外にあるものだった。
そしてニーチェが、これに劣らぬほど誇らしげに自称していたもうひとつの名前、「未来の子供」という名前の深い逆説をいささかでも軽んじる者には、ニーチェの理解は閉ざされていると思わなければならない。
ボイムラーは神話を過去についての鋭敏な感情に結びつけて理解したわけだが、その理解にはニーチェによる未来の神話が返答する。
未来、未来のすばらしい未知、それがニーチェ的な祝祭の唯一の対象である。
「人類は、とニーチェは考える後方よりも前方に、まだはるかに多くの時間を持っている─── 一般的に言って、理想を過去から得るなどということが、どうしてありえようか。」過去に縛りつけられた愛国者の吝嗇(りんしょく)とは反対の、未来への、攻撃的で無償の自己の贈与という考えだけが、否認されることを求めるツァラトゥストラの人格のなかにニーチェの十分に大きなイメージを定着させることができるのだ。
「祖国を持たない者たち」、過去の束縛を逃れ、現在を生きる者たち。
彼らは、自分たちの仲間の一人が愛国主義の悲惨さに鎖で繋がれるのを見て、どうして平静でいられるだろうか。
その一人とは、まさにその悲惨さに対する憎悪によって自分の子供たちの国に身を捧げた者なのに。
他の者たちが、父たちの国に、祖国に、目を奪われていたそのときに、ツァラトゥストラは自分の子供たちの国を見ていた。
過去に覆われたこの世界、人間が無数の傷に覆われるように無数の祖国に覆われたこの世界、それを前にして語られる表現としては、これ以上逆説的で、これ以上情熱的で、これ以上偉大な表現は存在しない。

「われわれ祖国を持たぬ者たち……」

レヴィナスが間違うことがありえた(というのもこの場合は、おそらく立場の表明ではなくて間違いだろうから)という単純な事実には、どこかしら悲劇的なところがある。
人がそれによって死にもする諸矛盾は、不意に奇妙なほど解決不可能なものに見えてくる。
というのも、相反する解決法を持つ相反する党派が、一見この諸矛盾を解決したように見えるとしても、その解決は粗雑な単純化にすぎないからだ。
そしてそれが解決に見えるということは、死から逃れる可能性のかずかずをかえって遠ざけてしまうのだ。
過去の束縛から解放された者たちは、理性の束縛に繋がれた者たちである。
理性を束縛しない者たちは、過去の奴隷である。
政治のゲームは、みずからを作り出すために、同じように偽りに満ちたいくつかの立場を必要とするのである。
そしてそれらの立場が変わることなど、ありえないように思われる。
生によって理性の諸法律を侵犯すること。
理性に逆らって生それ自体の要請に応えること。
それは政治の世界では、実質的に、手も足も縛られた状態で過去に身をゆだねることにほかならない。
しかし生は、本当は、理性的・行政的な[囚人におこなうような]身体測定システムからの解放と同様に、過去からの解放をも求めているのである。

生をかたちづくる情熱的で荒々しい運動は、生が何か異様なもの、あたらしいもの、失われたものを求めることに呼応しているのだが、その連動がときに政治活動によって担われるように見えることがある。
しかしそれは束の間の幻想でしかない!
生の運動が、政治組織の限定的な運動と混同されるのは、一定の条件を満たす場合だけである。
他の条件下では、生の運動は、はるか彼方、ニーチェの眼差しが遠望していたまさにその場所で展開されるのである。
はるか彼方、きわめて限定された時間と目的のために採用された単純化のかずかずが意味を失う場所、実存が、そして実存をもたらす宇宙が、ふたたび迷路のように見えてくる場所……その迷路だけが生の無数の可能性を閉じこめているのだが、ニーチェの矛盾にみちた思考が、変わりやすい自由に身をまかせて向かうのは、その迷路のほうにであって、直接性による貧困のほうにではない。
ニーチェの思考は、現在ある世界のなかで、もろもろの心配事から唯一逃れているものであるようにさえ思われる。
それら差し迫った心配事のかずかずのせいでわれわれは、目を十分遠くまで開くことを拒否してしまうのだ。
諸党派が提案する解決法のなかにすでに空虚を見いだした者たち、それらの党派がかき立てる希望のなかに、死の匂いが充満する戦争の契機だけを今や見る者たち、彼らは、自分たちを襲う痙攣にみあった信仰を探している。
つまり、どこかの国旗や、その国旗のあとに続く出口なしの殺我行為ではなく、宇宙のなかで、笑いや陶酔や供儀の対象となることのできるすべてのものを、人間のために再発見する可能性を。

われわれの祖先は、とニーチェは書く。
われわれの祖先は、信仰のためならば自分の財産も、自分の血も、自分の身分も、自分の祖国も犠牲にするような、そんな比類なく誠実なキリスト教徒たちであった。
われわれは───われわれは同じことをしている。
しかし何のためにか。
個人的な無宗教によってか。
普遍的な無宗教によってか。
いや、友人たちよ、君たちはそれをはるかによく知っている。
君たちのなかに隠された「諾」は、君たちが時代とともに病んでいるあらゆる「否」やあらゆる「おそらく」よりも、ずつと強い。
そしてもし君たちが海に出なければならなくなったら、君たち亡命者たちは、君たち自身のなかに見いだすようにがんばりたまえ───ひとつの信仰を……

ニーチェの教えがつくりあげる信仰は、そのセクトあるいは「教団」の支配的な意志が、人間の運命を、生産による理性的な隷属からも過去への非理性的な隷属からも解き放ち、自由にするようなものになるだろう。
転倒された諸価値が有用性の価値に縮小されてはならないこと、それは決定的に重要な、焼けつくはどに重要な原則であって、その原則は、生がもたらす勝利への猛々しい意志のすべてを一緒にかきたてずにはいないだろう。
こうした明白な決意がなければ、ニーチェの教えは、それを尊重すると主張する人間たちの軽率な行動や裏切りのかずかずを生み出すだけにおわるだろう。

奴隷化は人間の実存全体を包み込もうとしており、賭けられているのは、その自由な実存の運命なのである。

<<引用ここまで。

 

 

 

 

 

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