こそばゆい歴史

OCR するのに画像の処理は結構大変です。
『創造的日本語』 だと僕の言葉は親父に解釈されていた。
僕の両親はなんとか僕を理解しようと藻掻いていた………………
藻掻きに感謝している。

母方の婆さんもこの地域で最初のストライキを組織した女工だった………………
その婆さんがテレビでミック・ジャガーを観て、
『この子は本物だ!!おまえもこうでありなさい!!』
なんて言った。

僕は洋楽と出逢ったのは小学生の頃で、
母方の爺さんが鉱山の電気技師だったもので、短波ラジオを作ってくれた。
それで、
「ハロー! ジャパン!! ごきげんよう!」
なんて米軍放送を聞いていた。
周波数が難しいので、バリコンに自転車の後輪を接続して脳性麻痺の僕が微妙に回転出来るように設定してくれた。
出力は50ワットで、当時としては大きかった。
廃品のラジオから部品を集めて作ったけれど、トランスが無かった。
で、
爺さんは屋根に細い銅線を置いて E の字にくり抜いた薄い鉄板に巻き付けて作ってくれた。
電解コンデンサーだけはどうしようもないので、シャンク屋で買ってきた。

ははははははははははははははははははははははははははははは。

だるま管が懐かしい年頃………………僕はつくづくマセ餓鬼だったと思っている。
じゃから、
似たような年齢の人達と一寸感覚が違うのかも知れない。

 

 

 

 

 

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