僕の書いている日付を見てごらん。

岩波文庫 白124-1
ユダヤ人問題によせて カールマルクス 城塚 登 訳
pp.66-67

引用ここから>>

キリスト教はユダヤ教の崇高な思想であり、ユダヤ教はキリスト教の卑俗な適用である。
しかしこの適用は、キリスト教が出来上がった宗教として、人間自身および自然からの人間の自己疎外を観想的に〔理論的に〕成しとげて後、はじめて一般的となることができたのである。
ここにおいてはじめて、ユダヤ教は一般的支配の地位に達し、外化された人間、外化された自然を、譲渡できるもの、売却できるもの、利己的な欲求に隷従し、あくどい商売の餌食となるものにすることができたのである。
譲渡することは、外化の実践である
人間は宗教にとらわれている限り、自分の本質を何か疎遠な幻想的な存在とすることによってしか、自分の本質を対象化するすべを知らないのであるが、同様に人間は、利己的欲求の支配下にあっては、自分の生産物および活動を疎遠な存在の支配下に置いて、それらに疎遠な存在───貨幣───の意義を付与するという仕方でしか、実践的に活動し、実践的に諸対象をつくりだすことができないのである。
キリスト教の浄福利己主義は、完全に実践された場合には、必然的にユダヤ人の肉体利己主義に一変し、天上の欲求は地上の欲求に、主観主義は私利に一変する。
われわれはユダヤ人の強欲さを彼らの宗教から解き明かすのではなく、むしろ彼らの宗教の人間的基礎から、すなわち実際的欲求、利己主義から解き明かすのである。
ユダヤ人の現実的な本質が市民社会において普遍的に実現し、現世化したのであるから、市民社会はユダヤ人に彼らの宗教的本質───これは実際的欲求の観念的な見地にほかならない───が非現実的であることを納得させることができなかった。
こうして、モーゼ五書やタルムードのなかだけでなく、現在の社会のなかに、われわれは今日のユダヤ人の本質を、或る抽象的な本質としてではなく、或るきわめて経験的な本質として見いだし、また、たんにユダヤ人の偏狭さとしてではなく、社会のユダヤ的偏狭さとして見いだすのである。
社会がユダヤ教の経験的な本質であるあくどい商売とその諸前提を廃棄することに成功するやいなや、ユダヤ人というものはありえないことになる。
というのは、もはやユダヤ人の意識は何らの対象ももたなくなるからであり、ユダヤ教の主観的基礎である実際的欲求が人間化されてしまうからであり、人間の個人的・感性的あり方とその類的あり方との衝突が揚棄されてしまうからである。
ユダヤ人の社会的解放は、ユダヤ教からの社会の解放である。

<<引用ここまで。

考えさせられるでしょ!!!!

量子コンピュータ………………日経新聞と観念的に連動しているのかもしれん。

ははははははははははははははははははははははははははははは。

新自由主義の恐怖の極地だよ。

 

 

 

 

 

 

 

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