40年以上使用可能なら哲学の500年ぐらいは平気だろ?

ネグり3

OCR が面倒になってきた………………1980年辺りのスピノザ・ブームと行ったり来たりしているんです。
で、
この本から一節。

スピノザ政治思想の展開におけるマルチチュードと個別性 pp.118-121

引用ここから>>

では、手始めに、少し距離をとって、ニーチェがスピノザについての判断を述べているいくつかの節を取り上げてみたいと思います。
じつのところ、肯定的な判断についてはあまり云々しません。
たくさんありますが。
若き日のニーチェの形成過程を通じて 『エチカ』 が読まれていた、ということはよく知られていますから、わたしは否定的なものだけお話ししようかと思います。
主なものは 『悦ばしき知』 の諸々のアフォリズムに見られますが、三四九を取り上げましょう。

自分自身を保存しようと欲するのは、窮迫状況の表現であり、本来の生の根本衝動───力能拡大を目指しつつかつこの意志のゆえにじつにしばしば自己保存に疑いを抱きこれを犠牲にするところ───の、萎蘼(び)衰退の表現である。
たとえば肺病やみのスピノザのような二三の哲学者が、いわゆる自己保存の衝動のうちにこそ決定的なものを認め、また認めざるをえなかった場合、それを症候的なものととって良いだろう。

また三七二も取り上げましょう。

スピノザのようなああした人物にあってさえ、そこに何かしら深く謎を学んだもの・薄気味わるいもののあるのを諸君は感じないだろうか?
そこに演じられている芝居を、たえず顔色蒼ざめてゆくその芝居を、───いよいよもつて理念的に解釈されてゆく感覚離脱を、諸君は見ないだろうか?
その背景に、諸君は、永いこと身をひそめた吸血鬼が、感覚を手はじめに知をしゃぶり最後には骨と骸骨の音しか何一つ残さないようになるのを、感じないだろうか?───わたしが言っているのは、範疇、公式、言語のことだ(というのは、失礼をかえりみず言えば、スピノザの思想から残ったもの、つまり「神の知的愛」(amor intllectualis Dei)は、骸骨のガラガラ音であって、それ以上の何ものでもない!なにが愛 amor であり、なにが神 deus であるのだ、もしそれらに血の一滴すらないとなれば?)

最後に 『善悪の彼岸』 のアフォリズム一九八を。

[……]愚昧・愚昧・愚昧と混交した小賢しさ・小賢しさ・小賢しさというやつだ[……]スピノザは例の笑わず嘆かずを主義とし、まことに素朴にも情念を滅ぼすには情念の分析と解剖をもってせよと勧めた「……]。

ニーチェがスピノザを攻撃しているこういった箇所のすべては、以下のように要約できます。ニーチェはスピノザをある種の神学の代表者と見なした、その神学は自然にしたがって行動するとはいえ、倫理学的な態勢に足を踏み入れる瀬戸際なのだ、と。
ニーチェにとっては自然を保存するという観念、および自然を徳に変容する(万事が知的愛 amor intellectualis へ向かうはずの推移)という観念そのものが───ええ、それらのすべてが、自然が自分自身にたいして引き起こす混乱や破壊とは対照をなすように思われました。
自然と歴史の連続性はニーチェにとっては反対に、力能への意志によって遮られるものなのです。

<<引用ここまで。

出典とか解説はすっ飛ばしていきます。それは、是非、本をお買い求め下さい。
ここら辺りが 【肝】 のような気がします………………バタイユもそう感じた?………………

ううん、よー解らん。

本棚からガヤガヤ・ガヤガヤと野次が聞こえるようになってきた………………
そうだ!
人混みに酔うのは、本=人に囲まれ過ぎだからだ!

ははははははははははははははははははははははははははははは。

それでも、足りない、下流老人。

 

 

 

 

 

 

 

 

広告
カテゴリー: 未分類 パーマリンク

コメントを残す

以下に詳細を記入するか、アイコンをクリックしてログインしてください。

WordPress.com ロゴ

WordPress.com アカウントを使ってコメントしています。 ログアウト / 変更 )

Twitter 画像

Twitter アカウントを使ってコメントしています。 ログアウト / 変更 )

Facebook の写真

Facebook アカウントを使ってコメントしています。 ログアウト / 変更 )

Google+ フォト

Google+ アカウントを使ってコメントしています。 ログアウト / 変更 )

%s と連携中