中性子が金属を変化させるけど、人間が鋳造したものには不純物がある有機物も。

ことは簡単ではないのだけれど、簡単にすることが科学ではないと信じている・僕。
物質としての・僕は、骨と髄と筋肉の収縮率の違いで、コルセットだらけで泣いていた………………
しかも、骨や髄や筋肉は均一の 【存在】 ではあり得ず………………
要するに、気温と気圧の変化で、セーヌ川状態だった。

で、
ふと、
歴史とか糞とかに想いを馳せると、次のネグリの文章が浮かんで、眠れなかった。
以下、
空しい引用かもしれないね。

スピノザとわたしたち
二〇一一年一一月一〇日第一版第一刷印刷 二〇一一年一一月二〇日第一版第一刷発行
著者───アントニオ・ネグリ
訳者───信友建志
発行者───鈴木宏
発行所───株式会社水声社

力能と存在論-ハイデッガーかスピノザか
pp.106-109
引用ここから>>

しかし、ハイデッガーとスピノザは、ある種のかたちで出会っていたとももちろん言えます。
すでに見たように───誰よりもまずニーチェが論じていたことではありますが───、両者ともに近代性の神話を打ち砕いていました。
この近代との断絶こそが、本当はいまそうであるほどには隔たっておらずともよかったかもしれない、ふたりの著者の共通点です。
この共通の次元───共通の認識と経験を通じた移行を、どのように表現したものでしょう?
どの点でわれわれは、ここに頸似性を見つけてしまうのでしょう?
存在論の領域にたいしてスピノザとハイデッガーとは共通した内省を行なっていますが、その第一の要点は存在を徹底して共-存在(mit-Sein)として主張することにあります。
ふたつの哲学が経由する共通の要素はこれです。
両者にとって、存在は共-存在として姿を現します。
もちろん、この共-存在をつまらないものにしてしまうようではなりません。
これはありとあらゆる偶然の諸関係にも、言語的やりとりのさまざまな様相にも、同時にのしかかってくることなのです。
「弱い」哲学であれ、「言語」哲学であれ、どちらもそのことを本当に把握してはいません。
諸々の個別性が宿る場───実在物の現象学的網目(あみめ)───は、実際には厳格な諸関係の網目です。
われわれはどうも前ソクラテス的な存在経験のなかにいるような印象を受けますし、それに眩暈を感じないではありません。
共-存在」とは他性にむかって継続的に開かれているというだけでなく、深みに、つまりふたつの哲学によってあきらかにされた、尽きることのない審級に向かって開かれてもいます。
すでにフッサールにおいて、個体性が共-存在に沈潜すること、そしてそこから個別性として浮上することが措かれていました。
フッサールにとってこの次元は、以前は生気論として考察されてきた、あるいは否定されてきた、いくつかの様相を示すものです。
しかしここで逆に、存在に沈潜するという現象学に定められた条件が、その存在のことを生政治的な様相で提示し始めるようになったのです。
存在をビオスに基づいたものと見なす際には注意するように、という話はよく聞きます。
確かに、そこから数多くの誤解が芽生えてきました。
しかし、繰り返しますが、こうした誤解はわれわれがここまで見定めてきたことと同じもの、つまり空虚と充溢、無と力能、生と死の間の二者択一と同じことなのです。
ハイデッガーとスピノザのあいだの関係にもこれは有効です。
スピノザにとって探求が「マルチチュードであること」、あるいは「マルチチュードを作ること」に向かうとき、存在は生政治的な様相をとります。
ここで、存在は生産的な絶対内在性です。
もっとも深いものが実存の表面をなすのです。

存在のこうした様相に立ち戻るのは印象深いことです。
ヘーゲルの言ったことを思い出しましょう。
徹底したスピノザ主義なしに哲学はない。
同じようにこうは言えないでしょうか?
ハイデッガー主義なしに哲学はない。
そう考えた者もいます。
そしてこの主張は、ポスト近代を定義する表現の基礎であり、あるいはその経験そのものの基礎でもあります。
しかし、この主張を超えねばなりません。
ハイデッガーにおける存在の性格規定は蹟きのもととなる倒錯したものだ、と付け加える勇気を持たねばならないからです。
他方でスピノザの場合は、その性格規定は───徹底的に───この生産の力能、そして希望であり存在論的能力であるとされています。
だとするなら、ハイデッガーは反動的でファシストで、一方のスピノザは民主主義者でコミュニストだ、ということでしょうか?
こんな風にことを大げさにするから、ハイデッガーに反論不可能な責任を押しつけ、スピノザには不適切な上に歴史的にもふさわしくない位置づけをしてしまうのだ、というのはすぐにわかります。
しかし、この(スピノザにとつての)歴史記述的な難問を説明するために、そして逆にハイデッガーが───反動主義者として───解釈する歴史との関係でそれを明確にするために、われわれはこの危険を冒し、ほかにいくつか問いを立てることで進んでいこうと思うのです。

共-存在のなかの存在、それが意味するのは、現在性の哲学のなかの存在ということです。
現代哲学の大転回、コペルニクス的革命はフッサールとウィトゲンシュタインのあいだに生まれました。
このとき、生気論はふたつの見地に翻案されます───ウィトゲンシュタインの言語分析によって解釈された神秘主義的見地と、フッサール哲学によって構成された禁欲的見地です。
この二者択一を通じて、「共-存在」の内在性、「内-存在」の内在性が明確化します。
哲学をすること、それはみずからが時間のなかに沈潜していることを認めることなのです。
存在の時間のなかに沈潜しているという直接性を和らげるためだけに、他者との関係は存在します。
この状況の外へとわれわれを引き出してくれるのは差異の感覚(諸個別性どうしの関係)しかありません。
差異の感覚は確かにそれ自体が、「共-存在」のなかの、そして「内-存在」のなかの相互作用に影響します。
この状況下で、ハイデッガーとスピノザは違う選択をします。
ニーチェは、おのれの思想とはまったく反するものながらも、他に先駆けてその選択を見定めることができました。
生への愛か死への固着か、個別性の喜びか全体性の喜びか、それを選ぶことができる、ということです。
永遠回帰に対抗して死への憎悪を、あるいは政治的なものの超越性に対抗してマルチチュ………………

<<引用ここまで。

悩み多きジジイ………………天麩羅と賽子の理論で、疲れていた。

ははははははははははははははははははははははははははははは。

考え込むジジイは、日本的?なものは、好かんのかもしれん。
悲しくなって仕方がない。
消えゆく島の心根かもしれない………………

 

 

 

 

 

 

 

 

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