100本の映画よりも1個のフランスパン。銭を得てから幻想だ。

健常者には解んねえだろうなぁ………………年寄りは障害者ではありません。
最初から 〈禁忌を生かされる〉 存在なんです。

『最後の親鸞』への註釈
吉本隆明
最後の親鸞
<付録>1977.10
春秋社

より引用>>

真宗の始祖親鸞は信仰によって僧侶で在ったのではなく、知識がたまたま〈信〉の形をとらざるを得ない時代だったから僧侶だったにすぎなかった。
また、僧侶だったから浄土門の経典を註釈したのではなく、思想がたまたま仏教の形をとらざるを得ない時代だったから、仏教的であったにすぎない。
この意味は、ウェーバーの方法からはとうてい理解に達することはできないものである。
とくに親鸞にあらわれている口称念仏による往生論は、すでに大乗仏教におけるユートピアとしての浄土が、観念的な異空間に描くことができないものであることを象徴していた。
つまり観想力による浄土のイメージは、親鸞ではすでに解体されていた。
それが無意味なことは僧侶によっても民衆によっても、かなりはっきりと自覚されていた。
親鸞はそれに思想的な内容をあたえたといいうる。
それを根拠づけるために親鸞がやったことは〈善〉と〈悪〉との価値を転倒してみせることであった。
かれは、ある絶対善にたいして、善行よりも悪行の方が近くにあるという概念を造りだした。
ただこの悪行は、意志的に(あるいは目的意識的に)なされるかぎり、直ちに善行よりも絶対善にたいして、かえって迂回路に滑りこむという保留が与えられたのである。
こういう理念は、ウェーバーがいうような意味では宗教的なものではなく、宗教からの逸脱であり、また宗教の解体であるといってよい。
宗教にたいする通念のうち、もうひとつ難解なのは、宗教すなわち観念論的迷蒙という概念が、どうしても支配的にでてくることである。
また、浄土という概念がただちに空想的ユートピアだという考えに陥りやすいことである。
これは、一般に、ウェーバーのような実証的(と称する)方法が陥りやすい迷蒙である。

宗教には、思想がユートピア的な構想をとらざるを得ない時代だったからユートピアが想定されたにすぎないという面がある。

このことは逆に、現在〈科学〉的と称する思想が宗教的に流布されている 側面をもっているのとおなじである。

日本における大乗仏教の浄土も必ずそういう側面をもつものであった。
ユートピア的な浄土の概念を捨てきれなかったがゆえに、日本における大乗仏教は、空想的・観念的なのではない。
また、宗教が一般に空想的・観念的なのでもない。
ここを誤解しないことは、たぷん宗教を理解するばあいの要めをなしている。
おおくの進歩的な宗教研究家(たとえば服部之総)はここのところを曲解し、曲解の歴史を造ってきた。
かれらは宗教の宗派が、その教理のうちに実践的な性格をもつかどうか、実践的な反体制運動をしたかどうかに、宗派の進歩性と反動性を類別する基準をみつけようとした。
あるいはある宗派が、どういう社会的な階層を基盤にしているかに、進歩か反動かを類別する目安をみつけようと試みてきた。
そして信者層の社会経済的な基盤の分析に意を用いた。
けれどこういう分析には本来的にいってかくべつ進歩か反動かを区別する目安は存在しない。
また、そんなことにかくべつの重要な宗教の意味は存在しない。
宗教は
どんな宗教であれ観念の構造そのもののなかに本質的な意義をもつもので、その現実的な形態に本質をもつものではない。
ある宗派の観念の構造のなかに、時代の必然的な形がどのように正確に把えられ、どのような萌芽が在るかが問題のすべてであるといっても過言ではない。
親鸞がユートピア的な浄土の概念をほとんど否定しようとしたところには、たんに時代的な〈信〉の解体を正確に把えている面だけではなく、その以後に永続的につながる課題にたいする漠然とした予見があったといってよい。

たぶんわたしがここで云っていることは、じぶんの著書にたいする外側からの予備的な前提と一般的な位置づけを読者に強要していることになっているとおもう。
そしてそれは自分の著書を解説してみせることが、照れくさいことに帰因している。

(「週刊読書人」昭和51年11月29日号より再録)

<<引用ここまで。

た、たぶん、本を買わないと読めない………………厳密に GNU に準拠しようとしているので、資本主義的な出版の宣伝効果は抜群だと思ふ………………
キリストや親鸞みたいに幻想の荒野に両手を差し出して、彷徨う………………
なんとか・反対集会で、後から撮影すると禿げ頭が目立つという世界観???

1968年のテメエに戻れ!
たそがれてるんじゃあ、ねーや!

ははははははははははははははははははははははははははははは。

僕はそんなことを言いたい訳ではない。
西田やその他の桎梏を排除し得る哲学者の登場を待っているだけです。
哲学を終わらせなければ哲学では無いというのは、アカデミズムから排除されしものの詭弁です。

朝から眠くなってきた。
ここ3~4日、死人(しびと)の宣言が夢に出て眠れなかったんです。

 

 

 

 

 

 

 

 

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