ヘーゲルの呪縛のもの凄さ

吉本隆明の呪縛? なんてものじゃない………………
フォイエルバッハの 「匿名性」 は、今の僕には考えられない程、深刻だった………………
バタイユもそうなのだろう………………受肉の恐怖へ誘われて………………
「あんた!よしなさいよ!」 って、シモーヌは言ったかどうか?
【取りこぼしたもの】 の 【有り様】 の差異………………
デリダは徹底的にやろうとして、やりきれなかった?
キルケゴールは辺境の地で素知らぬ顔をして、穿ったドイツ語でなんとかインテリの地位を保った?
うーん、よく解らない。

ははははははははははははははははははははははははははははは。

「趣味」 だから、死ぬまで遊べる19世紀………………
懺悔ですよ!

懺悔!

1843年の交換書簡 マルクスからルーゲへ クロイツナハ 1843年9月 城塚 登 訳
pp.143-146
岩波文庫 白124-1 ISBN4-00-341241-9

引用ここから>>

理性はいつでも存在してきました。
ただ必ずしもいつも理性的な形態をとってきたとは限らないだけです。
それゆえ批判者は、理論的および実践的な意識の各形態から論を進めて、現存する現実性の固有な形態からそれの当為および究極目的としての真の現実性を展開することができるのです。
ところで現実の生活について言えば、まさに政治的国家こそ、たとえそれがまだ社会主義的諸要求によって意識的に実現されていない場合でも、それの近代的形態のすべてのうちに、理性の諸要求を含んでいます。
しかも政治的国家はそこにとどまっていません。
それはいたるところで理性が実現されているものと見なすのです。
しかし、それはまたいたるところで、それの理念的規定とそれの実在的諸前提との矛盾におちいるのです。
それゆえ政治的国家の、この自己自身との衝突のなかから、いたるところで社会的真理が展開されうるのです。
宗教が人類の理論的諸闘争の内容目録であるように、政治的国家は人類の実践的諸闘争の内容目録なのです。
こうして政治的国家は、共同体の一種としての〔subspecie rei publicae〕その形態において、あらゆる社会的闘争、欲求、真理を表現しています。
それゆえ、きわめて特殊な政治的問題───たとえば身分制と代表制との区別といったような───を批判の対象としても、それは原理の水準〔hauteur des principes〕以下のことではけっしてないのです。
なぜなら、この問題はただ政治的なかたちで人間の支配と私的所有の支配との区別を表現しているにほかならないからです。
それゆえに批判者は、これらの政治的問題 (粗雑な社会主義者たちの見解によれば、これらは論じるに足らぬとされるが) に立ちいることができるばかりでなく、また立ちいらねばなりません。
批判者は身分制に対する代表制の長所を展開することによって、実践的に一つの大きな党派の関心をひき起すことになります。
彼は代表制をそれの政治的形態から一般的形態へと高め、それの根底にある真の意義を効力あるものとすることによって、同時にこの党派をしてそれ自身の立場を越えていくことを余儀なくさせます。
というのは、この党派の勝利はまた同時にこの党派の喪失でもあるからです。
それゆえ、われわれの批判を政治の批判に、政治における党派への加担に、したがって現実的諸闘争に結びつけ、それらと同じものとみなすのに、何らの妨げもないのです。
その場合、われわれは世人に対して教条主義的に新しい原理をふりかざして、ここに真理がある、ここに跪け!というように立ち向かうのではありません。
われわれは世人に対して、世界の諸原理から新しい諸原理を展開するのです。
われわれは世人に対して、君の闘争から手を引け、そんな闘争は愚かなことだ、われわれが君に闘争の真のスローガンを呼びかけてあげよう、などと言いはしません。
われわれは世人に対して、ただなにゆえに彼らが本来たたかっているのかという理由を示すだけであって、そして意識とは、世人がそれを獲得しようと思わない場合でも、獲得しないではいられないものなのです。
意識の変革は、世人をして彼ら自身の意識に気づかせること、世人を彼ら自身についての夢から醒まさせること、彼ら自身の行動を彼らに明らかにすることのうちにのみ存するのです。
われわれの全目的は、ちょうどフォイエルバッハの宗教批判がそうであるように、宗教的および政治的諸問題を自覚的な人間的形式にもち込むこと以外にはありえません。
それゆえ、われわれのスローガンは次のようでなければなりません。
すなわち、

教義によってではなしに、神秘的な、それ自身不明瞭な意識───たとえそれが宗教的なかたちで現われようと政治的なかたちで現われようと───を分析することによって意識を改革するということです。

そうすれば、世人がずっと以前から、ある事柄について夢をもっていたこと、そしてその事柄を現実的に手にいれるためには、ただそれについての意識をもちさえすればよいことが明らかになるでしょう。
肝要なのは過去と未来との間に一本の大きな線を引くことではなくて、過去の思想を完成することであるということが明らかになるでしょう。
結局、人類はどんな新しい仕事を始めるのでもなく、意識をもって自分の古い仕事をやり遂げるのだということが明らかになるでしょう。
したがって、われわれの雑誌のめざす方向を一言にまとめるならば、時代が自分の闘争と願望とについて自己了解すること(批判的哲学)だということができます。
これは世人のための仕事であるとともに、われわれ自身のための仕事でもあります。
この仕事は一致団結した力によってなされるほかありません。
肝要なことは 懺悔 であって、それ以上の何ものでもありません。
人類がその罪を許されるには、ただその罪を罪としてありのままに言明しさえすればよいのです。

<<引用ここまで。

 

 

 

 

 

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