休みの日は書斎で?お勉強三昧…………

ユダヤ人問題によせて 城塚 登 訳 pp.64-67
岩波文庫 白124-1 ISBN4-00-341241-9

引用ここから>>

ユダヤ教が宗教としてさらに展開し、理論的にさらに展開していくことはできなかった。
というのは、実際的欲求の世界観は、その本性上狭く限られたものであり、数行で尽きるようなものだからである。
実際的な欲求の宗教は、その本質からいって、理論においてではなく、ただ実践においてのみ完成されることができた。
それはまさに、その宗教の真髄が実践であるからにほかならない。
ユダヤ教はいかなる新しい世界をも創造することができなかった。
それはただ新しく創造された世界と世界諸関係とを、自分の活動領域のなかに引きいれることができただけであった。
というのは、私利を分別とする実際的な欲求は、ただ受動的にふるまうからであり、自分を勝手に拡張することなく、社会状態の進展とともに自分が拡張されるのを見いだすものだからである。
ユダヤ教は市民社会の完成とともにその頂点に達するが、しかし市民社会はキリスト教世界のなかではじめて完成する。
あらゆる民族的、自然的、人倫的、理論的関係を人間にとって外的なものとするキリスト教の支配のもとでのみ、市民社会は国家生活から自分を完全に切り離し、人間のすべての類的紐帯を引き裂き、利己主義と利己的欲求をこの類的紐帯の代わりにおき、
人間世界を相互に敵対しあうアトム的な個人たちの世界に解消
することができたのである。

キリスト教はユダヤ教から発生した。
それはふたたびユダヤ教のなかへと解消した。
キリスト教徒は、そもそものはじめから、観想的な態度をとるユダヤ人だったのであり、したがってユダヤ人は、実践的〔実際的〕なキリスト教徒なのであって、実践的キリスト教徒はふたたびユダヤ人となったのだ。
キリスト教は現実のユダヤ教をただ見せかけの上で克服していたにすぎない。
それは実際的欲求の粗野さを蒼空への昇天による以外の方法で除き去るには、あまりにも高尚にすぎ、精神主義的にすぎたのである。
キリスト教はユダヤ教の崇高な思想であり、ユダヤ教はキリスト教の卑俗な適用である。
しかしこの適用は、キリスト教が出来上がった宗教として、人間自身および自然からの人間の自己疎外を観想的に〔理論的に〕成しとげて後、はじめて一般的となることができたのである。
ここにおいてはじめて、ユダヤ教は一般的支配の地位に達し、外化された人間、外化された自然を、譲渡できるもの、売却できるもの、利己的な欲求に隷従し、あくどい商売の餌食となるものにすることができたのである。
譲渡することは、外化の実践である。

人間は宗教にとらわれている限り、自分の本質を何か疎遠な幻想的な存在とすることによってしか、自分の本質を対象化するすべを知らないのであるが、同様に人間は、利己的欲求の支配下にあっては、自分の生産物および活動を疎遠な存在の支配下に置いて、それらに疎遠な存在-貨幣-の意義を付与するという仕方でしか、実践的に活動し、実践的に諸対象をつくりだすことができないのである。
キリスト教の浄福利己主義は、完全に実践された場合には、必然的にユダヤ人の肉体利己主義に一変し、天上の欲求は地上の欲求に、主観主義は私利に一変する。
われわれはユダヤ人の強欲さを彼らの宗教から解き明かすのではなく、むしろ彼らの宗教の人間的基礎から、すなわち実際的欲求、利己主義から解き明かすのである。
ユダヤ人の現実的な本質が市民社会において普遍的に実現し、現世化したのであるから、市民社会はユダヤ人に彼らの宗教的本質───これは実際的欲求の観念的な見地にほかならない───が非現実的であることを納得させることができなかった。
こうして、モーゼ五書やタルムードのなかだけでなく、現在の社会のなかに、われわれは今日のユダヤ人の本質を、或る抽象的な本質としてではなく、或るきわめて経験的な本質として見いだし、またたんにユダヤ人の偏狭さとしてではなく、社会のユダヤ的偏狭さとして見いだすのである。
社会がユダヤ教の経験的な本質であるあくどい商売とその諸前提を廃棄することに成功するやいなや、ユダヤ人というものはありえないことになる。
というのは、もはやユダヤ人の意識は何らの対象ももたなくなるからであり、ユダヤ教の主観的基礎である実際的欲求が人間化されてしまうからであり、人間の個人的・感性的あり方とその類的あり方との衝突が揚棄されてしまうからである。
ユダヤ人の社会的解放は、ユダヤ教からの社会の解放である。

<<引用ここまで。

ヘーゲルを超えていく姿が少しだけ見える………………
僕は頭が悪いから、結論を急ぐのは好きで無い。
解らなければ、解るまで 「読む」。
頭がスッキリしていくマルクスの 「過程」 が見透かせる?筈?
形而上学なんぞは、どーでも良くなっていくけれど、
「書いておかなければ馬鹿は動き出さない」 そういう風に読んでいる………………

ははははははははははははははははははははははははははははは。

弁証法的唯物論? まあ、慌てなさんな。
人生は永いようで短いけれど、勉強して行く 《過程》 に意味があるんだよ。

 

 

 

 

 

 

 

 

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