体感する哲学? 日本語にするとどうしてお洒落で無くなるのか? 解らん。

本棚を片付けていると、落ちてきた………………
金大生協のレシートが挟んであった………………
いろいろと書き込んであるんだが、判読不能ですぅ………………

デリダで病気になる人はきっと深読みし過ぎなんだと、ふと、思った。
数学や何かは厳密に批判するのに?どうして?哲学は 「体感的」 になってしまうのか?

理系就活で落ち込んだらエエと思ったささやかな僕のプレゼントです。
最近の訳本はかなり良くなっていると思いますので、ぜひ、お買い求め下さい。
日本語は難しいと言えば、それまでですけど、
ハーバード辺りから来日する 「日研生」 は、2週間ほどで日常会話はやっちゃいますぅ。
「日研生」………………17万円で、どこぞの國の人は仕送りに余念がありません。

ボランティアする・僕・暇人。

分かり易い箇所だと思います。文系の意地を見せれば、大丈夫です。
デリダがドゴール政権と何を戦ったのか? 考えないとさっぱり解らないという側面はありますけど、珍しく分かり易い箇所だと思います。

 

現代思想 1983 vol.11-12 12 青土社 刊
特集=哲学の変貌
pp.68-69

引用ここから>>

哲学の「伝統」の遺産相続人

デリダ ぼくはいくつかの柱欄のある本とかいくつかの声を持った本を書いたことがあります(『余白』のなかの「鼓膜=三角小間」、「二重の会」〔『散種』所収〕、『弔鐘』、『絵画の真理』、「歩=否」、『絵葉書』)。
しかしその射程とか音調の多様性を生かすためには、さらに別の形式、別の音楽を考案しなければならないだろうね。
「支配的な」要求はいつも、もっと多くの線状性、簡潔性、平板さを求めている、と言われ、そう信じさせたがっているのに、どうやって別の形式、別の音楽を受け入れさせることができるだろうか?
どこからどこまでもただひとつの声、一貫したパロール、それこそ人々が押しつけたいと思っているものなんですね。
そういう権威主義的規範というものは、無意識の陰謀、ヒエラルキー(存在論的、神学=政治的、技術=形而上学的ヒエラルキー)の策謀のようなものであって、そのヒエラルキーそのものが解体的分析を促しているわけです。
その分析は、なんらかの帰結を伴って広げられて、概念も、エクリチュールの制度と様態もぐらつかせるのです。
しかし伝統の全体にかかわることだと考えることができるのですから、ぼくにはそのような揺さぶりがどこに位置づけられるのかはわかりません。
揺さぶりがわれわれの位置を定めるのです。
そのような出来事は起こって〔場を持って〕いないし、出来事はおのれの場を探している、内でも外でも。
いずれにしても、出来事の空間はすでに、哲学の歴史と呼ばれているものとは、緑がない。
しかし出来事は別のかたちで哲学の歴史にも作用していきます。
ぼく自身としては、ぼくも遺産相続人であると思っています。
たんに耽美主義者の遊びではない哲学の楽しみと読み直しを渇望し、それが好きな、できるかぎり忠実な相続人であると思っています。
ぼくは反復が好きなんです、まるで未来がわれわれを信用しているみたいに、あたかも未来が、非常に古い言葉───しかも人々がいまだに話させたことのない言葉の暗号のなかでわれわれを待っているかのように。
ぼくは自分でもはっきりと認めていますが、こういうことがみな、責任と不敬の変てこな混じりものをつくっているわけです。
そこでは、現在の場面への注意は、強烈でもあり、絶望的でもあり、また時代遅れのように、少しぼんやりしたものでもあります。
しかしそういう変てこさがなければ、ぼくには今日何ひとつ望ましいものとは思われない。
われわれは「伝統」については知っていると思っている以上に多くのことを「伝統」から受け取ってきたわけですが、贈与の場面もまた、借りが一番多い思想に対しては、子としての一種の不敬虔、重大でもあり軽度でもある不敬虔をいたしかたないものにするわけです。
この対話でぼくは、カントやシェリングやヘーゲル、マルクスやキェルケゴールやニーチェ、それにレヴィナスやブランショ、あるいは友人でもあるその他の現代の思想家たちについて話をすればよかったのですが、ハイデガーの例を考えてみてください。
そこでですね、ハイデガーが「存在論的差異」とか「存在の真理」とか名づけたものが、ぼくに、哲学のもっとも結集的な読みを保証するものだと思われた時に、ぼくはその結集そのもの、一体性という傲慢、その傲慢が排除したり、またもや沈黙させているものを問題にすることが緊急のことだと思ったわけです。
なぜなのか?
何を目指してなのか?
ひとつの西欧の形而上学───形而上学というものについて、形而上学の言語について、ただひとつの宿命とか「存在の送付」とかについて、語る権利があるのか?
などなど。
そのとき以来、何もかもが開かれたままであり、まだまだ考えなければならないままになっています。
これが射程の多様性にかんするあなたのご質問に対する答えです。
射程の多様性はいつも迷路のような舞台装置とか活字の配置を要請するとはかぎらないわけで、ごく単純な一行の文、一語、ある音色を震動させることもある……

N.O 『黙示録の調子で』のなかで鳴り響いている 「来なさい」 のように?

デリダ まさしくその通りです。
あの 「来なさい」 は、他のいかなる言説にも、いかなる出来事にも、またいかなる秩序にも、いかなる欲望にも先行する呼びかけであって、終りのない、しかも何ひとつヴェールをはがすことのない一つの黙示録です……でも今日は、われわれはテクストそのものについては話さないということが了解済みでしたね、直接的には話さないということが……

(談話集録カトリーヌ・タヴィド)
訳者付記 小見出しは訳者による。
訳註は文中の〔〕内に記した。
(訳=はまなまさみ・フランス思想)

<<ここまで。

 

 

 

 

 

 

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