煙幕───間違い探しゲーム

こんなものをよくぞ日本語で、縦書きにしたものだと、
唖然としている………………
天神様じゃないけれど、
何時?
僕(ら)は、「呪縛」 から解放されるのだろうか?
あるいは、
「呪縛」 は、僕自身が引いたラインでしかないのだろうか?
吉備真備ってのが好きな僕は、
「鬼」 はきっと 「堕天使」 じゃなかったろうか? って、考えている………………
怨霊を祓う亡霊………………
これ以上 「引用」 なるものをすると、「犯罪」 になりそうだから、
途中でやめてある。

「横書き」 にすると 「縦書き」 では見えなかったものが見えるような気がするんです。

あっと!今日は表題を、

『金で買えないものは、
金を持っている奴に任せて置け』

と、するものでした。
何故?
デリダは、経済的な言葉を多用するのか?
解ったら、偉い!
『他者の耳』 の続きです。
本を買わないと、さっぱり解らないと思うけどなぁ………………
スペル・ミスは、ググって下さい。
なんせ、ググれないと、人間じゃないみたいですから。
でも、
よく見ていると、解り易いですよ。─── ───に色を付けたりして………………

 

引用ここから>>

自らの生を一つの贈物【ドン】として受け取ること、あるいはむしろ、生に対して、この生───しかしそれは私の生にほかならない───が贈与【ドネ】してくれるものについて感謝する[être reconnaissant: 恩義を認める]こと、より正確に言えば───そしてこれが天分〔贈物〕というものであったのだが───生に対して、この名───この名に向けて、私は自らの信用〔貸〕を開いた〔設定した〕のであり、この名が今そうなっている通りにあるであろうのはただ、この年に贈与されたもの(引用された三つの作品)から出発してのみであり、また太陽の運行[course]によって、さらにはその運行の、その逆行[recours]の、その回帰[retour]の一部によって日付を記された出来事【エヴェヌマン】の経過中[au cours de]においてのみである、そういった名───でもって書かれ、署名されえたものについて感謝する[savoir gre: 満足する]こと、過ぎ去ったことを、つまり四十四年を良きものとして、そして永遠に、不死のもののように立ち帰るべきものとして再肯定すること、以上のことすべてが、この自-伝〔自-生-記〕的物語の奇妙な現在【プレゼン】〔贈物〕を構成しているconstitue]、すなわち、集約し、接合し、それにふさわしい位置につかせているのである。

Und so erzähle ich mir mem Leben》。死者〔死せるもの〕を葬り、無傷のもの[le sauf: 救われたもの]を不死のものとして救う[sauve]この物語【レシ】が-伝〔自-生-記〕的であるのは、署名者が自らの生を、自らの過ぎ去った生の回帰を、死としてではなく、生として物語っているからではない。
むしろ、この生を彼が自らに物語っており、彼がその語り【ナラシオン】の───テクスト内部での───唯一ではないにしても最初の受取人[destinataire]であるからにほかならない。
そしてこの物語の「私」が永遠回帰の信用〔貸〕の中においてのみ構成されるものであるがゆえに、この「私」は、永遠回帰としてのこの物語【レシ】以前には存在しないし、また署名しない。
そこまでのところは、現在【プレゼン】〔贈物〕までのところは、生きている私とは、おそらく、一つの予断【プレジュジェ】〔偏見〕にすぎない。
署名する、あるいは捺印するのは、永遠回帰なのである。

したがってあなた方は、結婚【イメン】〔処女膜〕の再肯定以前に、永遠回帰の円環【アノー】〔指環〕ないし結合【アリャンス】〔結婚指環〕以前に、フリードリッヒ・ニーチェという一つの名ないし複数の名を考えることはできないし、それらの名を聴き分けるentendre]こともできないのである。
あなた方は彼の生についても、彼の-生-彼の-作品[sa-vie-son-œuvre]についても、かの「然り、然り」───翳りなき贈与【ドン】(Geschenk)に対して、正午の成熟に対して、太陽のあふれんばかりの杯の支配下で与えられ【ドネ】る「然り、然り」───の思想以前には、何も聴き分け〔理解し〕ないだろう。
さらに『ツァラトゥストラ』の序曲〔始まり〕に耳を傾けていただきたい。

こうした出来事の日付la date]を確定する上での難問がここから出てくる。
一つの自-伝的物語の到来をどのように位置づけるか、つまり、永遠回帰の思想であるかぎりで、あらゆる出来事の到来が、別の仕方で到来するにまかせることを余儀なくする、そうした自-伝的物語の到来をどのように位置づけたらよいのか。
こうした難問は確定するdéterminer]こと───それはたしかに一つの出来事に日付を記す[dater]ことであるが、また同時に、一つのテクストの始まり、生の起源、一つの署名の最初の動きといったものを固定する〔身分証明する〕ことでもある───が試みられるあらゆる場所で広く見られる難問である。
そしてそれと同じ数だけの縁取り[bordure]の問題もまた存在するわけである。

縁取りにおける〔としての〕銘ないし銘としての〔における〕縁取りの構造は、生が、「私の-生」が問題となるあらゆる場所で再刻印[reimprimer: 再版]されないわけにはいかない。
〔片や〕一つのタイトルないし序文と〔片や〕釆たるべき書物との問、『この人を見よ』というタイトルと『この人を見よ』〔本文〕「それ自体」の間に、この銘の構造が一つの場所を、つまりそこから生が叙唱されるrécité: 物語として再引用される]ことになる、言い換えれば生が、結婚指環〔円環〕によって結合されている自己自身へと永遠に(選別的に、生ける女【もの】として、つまりそのうちにある、葬るべき死者〔死せる男〕としてではなく)立ち帰るべきものとして再肯定される───然り、然り、アーメン、アーメン〔然カ有レヨカシ〕───ことになる、そういった場所を位置づけている。
この場所は作品の中にも───それが銘[exergue: 作品-外]である以上───著者の生の中にも存在しない。
少なくとも単純にはそうではない。
なぜなら、〔だからといって〕この場所がそれら両者の外にあるとも言えないからである。
この場所において肯定が反復〔再把捉〕される。
すなわち、然り、然り、私は是認する、私は署名する、私は「私自身」に対する、「私の-生」に対するこの負債[dette]の承認〔感謝〕に同意〔して署名〕する───そして私はそれがもう一度立ち帰ってくることを望む。
この場所はあらゆる否定性の翳までも葬ってしまう、つまりそれは正午にほかならない。
銘の言わんとするところは、もっと先で、「なぜ私はこんなに良い書物を書くのか」という章の中に再び現われているが、これは「大いなる正午」を準備することを、一つの約束[engagement: 抵当化]、負債、「責務」となす、つまり「人類が最高度に自己反省する瞬間、そこで人類が過去をふりかえり、未来をながめやる(wo sie zurückschaut und hinausschaut)[……]一つの大いなる正午を準備することを私の責務」(『この人を見よ』、「曙光」第二節)となすものである。

しかし生の正午は一つの場所であるのではない、それは場所をもつ〔生ずる〕ものではない。
そして、まさにそれがゆえに、一つの瞬間〔契機〕であるのではなく、それはただ、すぐさま消滅する一つの限界〔極限〕にすぎないのである。
しかもその上、それはいつの日も、つねに、一日[jour]毎に、円環〔指環〕の回転[tour]毎に立ち帰ってくる。
つねに[toujours: いつの日も]午前〔正午-以前〕であり、午後〔正午-以後〕なのである。
もし人がこの瞬間にしか、つまり彼が「正午だ、然り、然り、私、私と私、私は私に私の生を叙唱する〔物語として再引用する〕」と署名するその瞬間にしか、F・N〔フリードリッヒ・ニーチェ〕という〔略〕署名を読むことができない〔権利がない〕とすれば、そのとき、あなた方はありうべくもない読解儀法に、とりわけありうべくもない教育儀法に気づくことになる。
そして、次のように宣言した[déclarer: 不明瞭にした]場合に生じうる笑止千万な愚かさ、そしてまた闇から闇の、韜晦され、翳に包まれた陰険な事柄に気づくのである。
すなわち、フリードリッヒ・ニーチェはあれやこれやのことを言った、彼はあれやこれやについて、例えば───人間存在という意味であれ、生物学的な意味であれ───生についてあれやこれやのことを考えた、などと宣言した場合である。
フリードリッヒ・ニーチェがであれ、正午より後〔午後〕の誰か、しかじかの者、例えば私がであれ、いずれにせよ、そうなってしまうのである。

私はあなた方とともに『この人を見よ』を読むことはないだろう。
銘の場所についての、この銘が─或る昌に見えぬ〔姿を現わさぬ〕限界に従って───形づくる襞[pli: 折り目]についての次のような警告とともに私はあなた方を置いて行く[laisse: 別れる]ことにする。
すなわち、もはや翳りは存在せず、とにかくあらゆる言表、先行的な〔過去の〕ものも後続的な〔未来の〕ものも、
左寄りなものも右寄りなものも、同時に可能であり(ニーチェはそのすべてを、ほとんどすべてを言った)、また必然的に矛盾している(彼はこのうえなく両立不可能なことを言ったし、またそう言っていると言った)、ということである。
しかし『この人を見よ』を去る前に、この矛盾した[逆のことを言う]二重性[duplicité]について、一つだけ指針を与えておこう。

この種の「銘」の直後に、この日付の直後に何が起こっているのか(なぜなら、それは一つの日付記入date(←datum: 与えられたもの)]つまり署名行為であり、誕生日の召喚であり、贈与【ドン】〔天賦の才〕ないし所与【ドネ】の称揚であり、負債【デッド】の承認にほかならないのである)。
この「日付〔記入〕」の後に第一章(「なぜ私はこんなに賢明なのか」)が、ご存じの通り、「私の」生の〔二つの〕起源から、すなわち、私の父と私の母───さらに言うなら、死の原理と生の原理、終わりと始まり、下位のものと上位のもの、退化〔堕落〕するものと上昇〔優越〕するもの、こういったものの間の、私の生のうちにある矛盾の原理としての父と母───のことから始まっている。
この矛盾が私の宿命にほかならない。
ところでこの矛盾は私の系譜そのもの、すなわち私の父と私の母に、私が謎めいた形で私の両親の身分証明〔同一性〕として述べていることに由来する、一言でいえば、私の死せる父、私の生ける母、死せる男〔もの〕すなわち死としての私の父、生ける女【もの】すなわち生としての私の母、に由来するのである。
私はといえば、私は両者の間にいる。
これは偶然こうなった〔私に舞い込んできた〕のであり、一つの「幸運」【チャンス】であって、この場所において、私の真実、私の二重の真実は、この両者に由来している。
きわめてよく知られた一節であるが、「私の存在の幸運(Das Giück meines Daseins)、おそらくその唯一性は[ニーチェは《おそらく》と言っている。
つまり、この幸運な状況のもつ範例的ないし範型【パラディグマ】的性格を彼は留保しているわけである─デリダ]、その宿命に由来している。
このことを謎めいた形(Rätselform)で表現するなら、私は、私の父としてはすでに死んでおり(als mein Vater bereits gestorben)、私の母としてはなおも生きており、老いつつある(als meine Mutter lebe ich noch und werde alt)」。

私が私の父であるかぎりにおいて、私は死んでおり、私は死である。
私が私の母であるかぎりにおいて、私は持続する生であり、生者〔生ける男〕であり、生ける女である。
私は私の父、私の母、そして私であり、私の父、私の母、そして私である私であり、私の息子そして私であり、死そして生であり、死せる男そして生ける女である、等々。

私が誰であるかは以上の通りである、このような男、このような女である。
ich bin der und der これは以上のことすべてを意味しているのであり、このような耳、すなわち死せる男と生ける女の耳のごとき耳でもって聴かぬかぎり、あなた方は私の名を聴き分け【アンタンドル】られないだろう。
死せる父と生き延びる女───その後も生き延び【シュールヴィ】、さらには私を葬るまで生き延びることになる母───のこの二重の、分裂した名を。
生き延びる女は母であり、生き延びること【シュールヴィヴァンス】とは母の名にほかならない。
この生き延び【シュールヴィ】〔余生〕は、母が乗り越える【デボルト】〔はみ出す〕私の生なのであり、そして私の父、私の死せる生の名、これこそが私の父の名であり、あるいはいずれにせよ私の父称なのである。

F・Nと署名された言表を同定する【イランティフィエ】〔身分証明する〕と強弁するのであれば、その度ごとに、こうした上演〔再現〕不可能【イルプレザンターブル】な場面を考慮に入れる必要はないであろうか。
そして私が今し方読んだ、というか訳したばかりの言表の数々は、厳密な意味での自伝【オトビオグラフィー】〔自-生-記〕のジャンルには属していない。
ニーチェはいわゆる「実在の」彼の父と彼の母について語っていると言っても、たしかに嘘にはならないが、しかし彼はそのことを《in Rätselform〔謎めいた形で〕》語っている。
つまり、象徴的に、謎によって、言い換えるなら、諺めいた伝説という形で、教訓に満ちた物語として、語っているわけである。

では、二重の起源なるものから出てくる帰結の数々はどのようなものであろうか。
ニーチェの出生【ネサンス】は───「出生」という語の二重の意味(生まれることと血筋)において───それ自身、二重である。
彼の出生は、一つの特異なカップル、死と生、死せる男と生ける女、〔死せる〕父と〔生ける〕母から〔彼を〕生み出す[donne le jour]のである。
二重の出生ということから、私が誰であり、私がどのように私の身分〔自己同一性〕───二重にして中立という身分───を規定している[détermine]かが説明される。

「この二重の由来(Diese doppelte Herkunft)───いわばそれは生の梯子の最上段と最下段から来ているものであり、デカダンであると同時に端初でもあるわけだが───、おそらく私の特徴をなしている、生の問題全体に対するあの中立性、あの不偏不党性が、少なくとも幾分かでも説明できるとすれば、まさにこの二重の由来から説明されるのである。
私は、上昇と下降[文字通りには、太陽について言われるように、昇ることと沈むこと。
fur die Zeıch von Anfang ind Niedergang、昇るものと傾くもの、上位のものと下位のもの─デリダ]のしるしに対して、これまでのいかなる人間も持ちえなかったほどの鋭敏な嗅覚[注意していただきたいが、ニーチェはつねに狩り〔追跡〕のこと、足跡のこと、彼の鼻孔のことについて言っているのである-デリダ]の持ち主である。
私はこの点にかけては、優れた意味での教師なのである───私は両者を熟知している、私は両者である。ich kenne beides, ich bin beides」。

<<引用ここまで。

 

 

 

 

広告
カテゴリー: 未分類 パーマリンク