それでもパスカル的な思考法では………………

引用ここから>>

七六 学問をあまり深める人々に向って書くこと。デカルト。

七七 私はデカルトをゆるすことができないし彼は被のすべての神学において、もしできたら神なしですましうることをのぞんだかもしれない、が世界に動きを与えるためにはどうしても神をして一と押しさせないわけにはゆかなかった、しかしそれをさせたあとはもう神などは彼にとりどうでもよいものになってしまっている。

(一)この原文は写本しかない。マルグリット・ペリエの『記録』中にGuerrier神父の採拾したもの。
断章四三などと同じく誰かがパスカルの談話を想起したそのことばであろう

七八 デカルト、無用にして不確実。

デカルト

七九 〔「それは図形および運動より成る」とおおづかみにいうことは必要であろう。なぜならそれは真であるから。しかし、それらが何々であるかを述べてそうして機械を作りあげることは、笑うべきことである。なぜならそれは無用であり不確実であり難儀である。それがたとい真であろうとも、哲学はすべて一時間の労苦にも値いしないと我々は考える〕

八〇 なぜだろう、びっこの人は我々を腹立たせないのに、びっこの精神は我々を腹立たせる。そのわけは、びっこの人は我々のまっすぐ歩くことを認めるのに、びっこの精神は我々のほうがびっこをひいているのだというからである。そうでなかったら我々はびっこの精神に同情し腹などは立てないであろうのに。
エピクテトスはさらにつよくこう尋ねる、君は頭痛がしているといわれてもなぜ怒らないのか、君の推理は誤っているとか君の選択は誤っているとかいわれるとなぜ怒るのか。
そのわけはこうである、頭痛がしていないこと、びっこでないことには確信があるが、真を選ぶことにはさほど自信がないからである。
従って我々は、確信のよりどころとしてはただ我々が我々の全視力をもって見るがゆえにということしか持たないから、ほかの一人がその人の全視力をもって我々と反対のことがらを見ると我々は宙に迷わされおどろかされ、ほかの千人が我々の選択を笑うと我々はいよいよ宙に迷わされおどろかされるのである、なぜというのに我々は我々自身の光をほかの多くの人々の光よりも正しいものとしなければならず、ところでそれは大胆であり困難である。
びっこの人に関する意見にはそんな矛盾は決してない。

八一 心はおのずから信ずるものであり、意志はおのずから愛するものである、だから頁の対象がないと、心も意志も偽りのものに結びっくよりほかはない。(一)

(一)モンテーニュ一ノ四の標題に「心は、まことの対象がないと、いつわりの対象の上にその熱情を投げおろす」

想 像

八二 これは、人間のうちにあって人間を支配する部分であり、誤謬と虚偽とを使役し、つねには狡猾でないのでそれだけいよいよ狡猾である。なぜといって、もしこのものが、虚妄を示すところの *まちがいない* 規準であるならば、真理を示すところの *まちがいない* 規準にもなることであろうから。しかし、このものは、たいていの場合陰険であって、真にも偽にも同じ印を捺し、自分の特性を一向に印さない。*さらにまた*
私は愚人についていうのではない、大いなる賢者についていうのである、想像は大いなる賢者のあいだにおいてこそ人を説きふせる大いなるその長所をふるうのである。
理性は抗弁しても無益である、理性は事物に値打をつけることはできない。
好んで理性を監督し交配する、この理性の敵、この壮大なる力は、人間のうちに第二の本性をすえて、(一) 自分がいかに全能であるかを示した。この想像力は、人を幸いにし、不幸にし、健康にし、病気にし、富ませ、貧しくする。理性をして信ぜしめ、疑わしめ、否定せしめる。感覚をして休止せしめ、或いは働かしめる。人をおろかにし、賢くする。この想像力はまた、それの持ち主を、理性とはちがった仕方で、あますところなく十分に満足せしめるが、これを見ることほど我我にとってくやしいことはない。有能の人々は、知者が理性をもって *楽しむ* のとは全く違った仕方で、想像をもって楽しむ。この人々は人を見るのに権勢をもってする。この人々は、議論をするのに大胆と信念とをもってする、*ほかの者は、恐れと疑いとをもってする*。またこの人々は、その快活な容貌をもって聞き手の意見をしばしば自分のほうに有利なものにする。想像の賢者たちは、自分たちと性質を同じくする批判者たちから、ずいぶんひいきにしてもらうのである! 想像は、愚人を賢くすることはできないが、理性がじぶんの味方を不幸にするのに対抗し、愚人を幸福にする。じぶんの味方を、想像は光栄でおおい、理性は恥辱でおおうのだ。
この想像力を除いて一たい何が、人に、仕事に、法律に、偉人に、名声を与えるであろうか、また、尊敬を与えるであろうか。このものの協賛がないならば、地上のいかほどの富も不十分〔である!〕
諸君はこういうかもしれない、すべての人がその尊敬すべき老齢に頭をさけるあの法官は、純粋にして高大なる理性をもって身を治めている、*そうして* もろもろのことがらをそのことがらの本性に従って裁き、弱い者の想像をただ悩ませるばかりであるところの空しいかずかずの情状には意をとどめることはないと。この法官が、*燃えるような慈愛* で理性を打ち固めつつ、全く献身的なる熱心をもって説教所へはいるのを見よ。*彼はそこで模範的なる尊敬をもって説教をきこうと待っている* そこに説教者があらわれるとせよ、そうしてこの説教者は生来声がしわがれていて顔が奇妙な形だったとせよ、*床屋のひげの剃り方が下手だったとし* なおその上に偶然よごれていたとせよ、この説教者がいかに大いなる真理をのべようとも、かの元老はその謹厳を失うことを私は断言する。
この世のいかに大いなる哲学者だとて、必要以上に広い板の上にいても、もしその板の下が深淵であるとしたら、たとえ彼の理性が彼をときふせて *安全だ* といっても、彼の想像のほうが立ちまさるであろう。多くはそのおもいにたえきれず、青ざめ汗をかくであろう。
私は想像の影響を、悉く語ろうとはおもわない。
*猫を見たり鼠を見たり炭がはねたり、そういう種類のことが埋性をその蝶つがいからはずしてしまうことを誰が知らない者があろうか。こえの調子はどんな賢い人々をも欺き、また話や詩を、いやおうなしに変える*
*愛は、にくしみは、裁きの局面を変える。あらかじめ十分に謝礼をうけた弁護士は、その口頭弁論をおこなう訴訟事件を、どんなにじっさいよりも正当なるものとおもうことであろう! その大胆なる身振りは、この外見にあざむかれたる裁判官たちに向い、この訴訟を、どんなに尤もなるものに見せしめることであろう! 笑うべき理性! 一とふきの風であやつられる、しかもどんな方向にでも*
想像にゆすぶられてゆらぐに他ならぬ、人間のほとんどすべての行為のことを、私は、できれば引証したいのだが、おもうに理性はその立場をゆずらざるをえなかったのである、そうしていかに賢明なるものといえども彼の原理として、人間の想像が到るところに軽率にとりこんだ原理を、採るのである。
〔理性にしか従おうとしない者は *人々の普通の判断からすると* 気違いじみている。最大多数の人々の判断に従って判断すべきである。皆が喜んでそうやっているのだからには、実体のない幸福 *だと承知していても* それを求めて終日労働すべきであり、眠りが理性の疲れを直してくれたらすぐにとびおきて、幻を追いに出かけ、この世界の支配者の影響をうけに出かけるべきである。
〔これは誤謬の一原因である、がこれ一つにはかぎらない〕
〔人間がこの二つの力を同盟させたのは正当だ、尤もそのように和合せしめてもなお想像力は十分相手に威を振るうのだが。理性は *決して、想像力を完全に圧倒することがない、つねにこれに負かされる〕
我々の法官たちはこの秘密(二)をよく心得ていた。彼らの赤い服、毛ぶかい猫のように身をつつむ貂の毛皮、裁きをおこなう法廷、ゆりの花、これらのいかめしい道具立ては、いずれも大いに必要だったのだ。*もし* 医者たちが長衣や上靴を用いず、博士たちが四角い帽子やどの部分もゆったりしすぎている衣服をつけなかったら、この人々は世人をあざむくことができなかったであろう、世人は *かようにも* 正当なる外見に対しては手を出すことができないのである。
もしも法官が正しい裁判をおこない、医者が真の医術をおこなうことができるのであるならは、四角い帽子などをこの人々は無用のものとするであろうし、そういう人々の学識の尊厳は、その尊厳だけで十分に尊敬されることであろう。
しかし架空の学識しかもたないものだから、いきおいこの人々は、これらのむなしい道具立てを用いて彼らの必要とする想像を働かしめるようにしなければならない、またじつさい彼らはこの方法によって尊敬をうけるのである。(三)
ただ軍人だけはそんな仮装をしなかった、なぜというのに、じっさい軍人の受持つところはもっと本質的である。軍人は実力によって立ち、他の者は仮面による。
こうして我々の王たちはそのような仮装を求めはしなかった。彼らは自分を王と見せるのに特別の衣服をまとうことはなかった、がしかし衛兵や鉞つきの槍を伴なった。腕も力も自己自身のためにのみ持つ武装した部隊、それから先頭を進むらっぱと太鼓、それらを取りまく軍団、これらのものは如何にしっかりした人をもゆすぶる。王たちは衣服を持たない、ただし、実力を持っている。……壮麗な宮廷に四万の近衛兵にとりまかれたトルコ王を、ふつうの人間のように見ようとするためには、ずいぶん澄みきつた理性をもつ必要があろう。
一弁護士が長い衣を着て帽子をかぶっているそれを見ただけで、我々はこの弁護士を有能視しようとする意見を抱かずにはおられない。
想像はあらゆるものを調理する。想像は美をつくり正義をつくり *また* 幸福をつくる、これらこの世の一切のものであるところのものを。
私は Dell opinione regina del maondo (四) というイタリアの本を心から見たいとおもう、私はこの標題しか知らないのだが *ただこの標題だけでも数多くの本に匹敵する* この本を知らないでも私はこの本を是認する、もしそこに欠点があるならそれは別として。
わざと我々を必然的誤謬にいざなおうとして我々に与えられているもののようにおもわれるこの欺瞞力の効果は、おおよそ以上のようなものである。
ほかにも *誤謬の* 原因は多いが。
むかし受けた印象のみが人を迷わせうるのではない、新しいものの魅惑も同じく人を迷わせる力をもっている。人々は、あるいは幼時の誤った印象に従うことを咎め、あるいは新しい印象をだいたんに追うことをお互いに各めて議論しあうが、そういう議論はすべて右のことから由来する。誰か正しい中間を保っている人があるならば、その人は進み出てそのことを証明するがよい!
ある一つの原理であって、どんなにそれが *幼時からの* 自然なものであろうとも、教育によるまちがった印象だといわれないような、あるいは、感覚によるまちがった印象だといわれないような原理は一つもない。
ある人はいう「君は箱の中に何もはいっているものが見えないとその箱は空虚だと幼時から考えてきているから、空虚というものはありうるものだとおもっている。これは君の感覚の迷いでありその迷いは習慣によって一そう強められているのだ *学問で訂正する必要がある*」 またある人はいう 「君は学派(五)に教えられて空虚というものはないと聞いているから君の良識はだめになってしまっている。君の良識はそういうまちがった印象を持たされるまえにはじつにはっきりと空虚のあることを知っていたのだ。君の第一の本性にたよって訂正する必要がある。」さてどちらが欺いたのであろうか、感覚であろうか、教育であろうか。
誤謬のもう一つの原因がある。それは病気である。病気は判断と感覚とをそこなう。大きな病気が判断と感覚とを明らかに変えるなら、小さな病気だとてそれ相応の影響を与えることを私は疑わない。我々自身のもつ利害関係もまた気持よく我々の眼をえぐるふしぎなる道具である。
世のいかに公正なる人といえども、自分の訴訟事件に裁判官として立つことはゆるされない。
自愛におちいるまいとして反つてこの上もない不正におちいった人々を、私は知っている。
つまり全く正当であるところの訴訟事件に *必ず* 敗れる方法は *そういう人々に、その近親たちをして依頼せしめることであった。正義と真理とは、二つのいずれもじつに微妙な先端であって、そこにぴったりとふれるためには、我々の用いる道具は、あまりにも磨滅している。道具は、そこに届くにしても、その先端をおおいつぶしてしまい、周囲にはみ出して、真の上をよりもよけいに偽の上をおさえる。
〔従って人間はじつに結構につくられており、真については何らの原埋をももたず、偽については多くのりっぱなものを持っている。今はこういうことが分ろう、いかに……
しかし人間の誤謬の一ばんおもしろい原因は、感性と理性との闘いである〕

(一)この壮大なる力は人間のうちに第二の本性をすえて……───すなわち理性は第一の本性をすえ想像力は第二の本性をすえたとパスカルはいう(二)この秘密───すなわち理性に対する想像力の勝利。或いは想像力と理性との同盟の必要。秘密ということばの使・い方についてはラロシュフゥコーの『格言』二五七にこんなのがある「おもおもしさとは精神の欠陥を匿すために案出された身体の秘密である」(三)モンテーニュ三ノ八に「その男からずきんと衣とラテン語とを取去ってみるがよい、また全くむき出しの全く生ま煮えのアリストテレスで我々の耳を叩くのをやめさせてみるがよい、その男は我々仲間と変らぬ一人に見えるだろう、それ以下に見えるかもしれぬ」(四)「世界の支配者・輿論について」。この輿論ということばをパスカルはここで彼のいう想像と同義に近く考えている。著者不詳(五)アリストテレスの教説。

欺く力についての章をここから始める。

八三 人間は誤謬に満ちたものであるにほかならない。この誤謬は自然的なものであり、恩寵なしには消し去りがたいものである。何ものも人間に真理を示さない。あらゆるものは人間を迷わせる。
真理の二つの根源である理性と感性とは、おのおのが純粋性を欠いているだけでなくお互いにあざむきあう。
*感性はいつわりの見せかけで理性をあざむく。感性が理性に向っておこなうこのあざむきを今度は感性が理性から受ける。理性が仕返しをするのだ。
*魂のもろもろの情念は *感性を* かきみだし、感性にいつわりの印象を与える。理性と感性とはあらそってあざむきだましあう。
しかしこれらの誤謬がこれら異質的能力のあいだで偶然的にまた知力不足のためにおこるのと別に……

八四 想像は、そのふしぎな評価によつて、小さなものを大きくし、我々の魂を満たすまでにいたらしめる。またその大胆な高ぶりによって、大きなものを小さくして、自己の尺度にまでいたらしめる、たとえば神について語るときのように。

八五 一ばん我々の気にかかっていること、例えばわずかばかりの持ち物を匿すというようなことは往々にしてとるにたらぬことなのである。一つのむなしいことなのだ、それが想像によって山のようにふくらんでいるのだ。想像の働かせ方をもうひとつ切り変えたらそのことが苦もなくはっきりする。

<<パンセから引用ここまで。

 

志向性というのがあるようです。
「科学」 なるものが 「それ自体」 で、もう一度他者の幸福に思い至ることがあるのでしょうか?
エルグ・スム(コギトー無し、ねっ!) の 「種としての類的自我」 って、言ったら解ってもらえるかな………………
「類」 って、なんだ、って、言わないで置きましょうね。
何を何したら子供が出来ちゃう、こと、ですから………………
「類」 が 「種」 を喰い尽くすのを 「革命」 と言うのかもしれん。
疲れたぁ………………眼が点ですぅ………………
パスカルとキルケゴールとニーチェと………………スピノザも?
彼らが 「哲学者」 と呼び捨てにする根拠は何?

カントの方がカッコイイのかな!?

バイロン、ハイネ、わしゃ、知らん♪

第四高等学校昭和初期の 「音」 で、お楽しみ下さい。

今日は、もう寝る。

 

 

 

 

 

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