Neoliberalism tá modheolaíocht simplistic. 訳して、単純馬鹿平蔵論かな?

銭が無いから、無駄な奴から掻き集めろ!単純じゃないですか!

「個」 が 「種」 である証明できたら、偉い!
と、
考えるか?
「種」 で・あ・る・こ・と・が、前提で 「個」 が成立するか?
なんだか、
そんなに高尚な?ことではないような気がするんです………………

銭を銭もちに固定化しなければ、「やばい無くなる、そのうちに」 という実感が彼をそうさせたに過ぎないのかもしれません。
いいですか、
「銭もち」 の直感は、貧乏人より優れているのです。
駄目になるのは感じているんです。貧乏人は年金生活が永続できると信じないと生きていけないですね。でもね、「銭もち」 は年金を永続させる気は最初から無いですよ。
詳しくは、竹中さんの講義でも聴きに言って、銭を出して本を買いなさい。ははは。

銭もちに銭を集中させても、銭もちは銭を使いません。
「生存」 に必要なもの以外で、使うことがあるかもしれませんが、
「敗戦国」 では、タンス預金 が基本です。
課税の対象になるのは、まっぴら御免なんです。

で、ですから、相続税は現金化して、(5円玉が金属として金より少し落ちる程度で体制に影響されにくいですぅ。) さっさと、手元に置きましょう!
年金暮らしで暇じゃから、5円玉に通し番号を書いて置きましょう!
生命を維持するだけだったら、貧乏人も金持ちもコンビニ賞味期限切れとユニクロで充分です。
何回も生まれ変われるだけ銭を集めて、何が楽しいのか?よく解りません。
どーせ、せいぜい長くて90年なのに!?

貧乏人のためにお布施をばら撒くのは、キリスト教が蔓延る社会では在り得ますが、
仏教では基本的に 「自我の恍惚」 が原則です。
苦業しようが、修行僧になろうが、基本的に 「他者」 は前提として 「仏」 であり、「八百万」 です。他者に修行をそそのかす 「道」 は、日本には御座いません。

何故?新自由主義が駄目かと言うと、「徹底化の保障」 が在り得ないからです。
残念ながら、人類は右を向いても左を見ても、「徹底化」 が 「好き」 なんです。
何故?
「障害者なんか、糞の役にも立たないから、殺してしまえ」 と言えないのですか?
何故?
「スマホの料金を払うときは、あんたはジジババのところに行きなさい、泣こうが、わめこうが」
って、素直に言えないのですか?

ジジババ元気で、米、送れ! それだけでしょ?

なんで?中間貯蔵施設の坪単価が半分になるのか?
よく、解りません。
数学的に間違っています。

ははははははははははははははははははははははははははははははははははは。

あなたの知りえる 「数学」 は、ハッカーにはかなわない。

以下は、スピノザになり切るには、余計なことを知ってしまった人の魂の叫びのように思うのです。

 

ニーチェと哲学
ジル・ドゥルーズ
江川隆男 訳
河出文庫

pp.314-316

引用ここから>>

〈自我〉の理論としての弁証法

すべてを破壊する自我は、また何ものでもない自我である。

「自分自身を分解する自我、けっして存在しない自我だけが実在的に自我である」。

「私は私の力能の所有者であり、私がその所有者であるのは、私が自分を唯一者であると知るときである。唯一者においては、保持者は自分を生み出した創造者に戻ることはまったくない。自我に優越したすべての存在は、それが神であれ〈人間〉であれ、私の唯一性の感情を前にして衰弱し、またこの意識という太陽のもとで色槌せていく。もし私が自我という唯一者のうえに私の原因を置くとすれば、私の原因は、自分自身をむさぼり食うそのつかの間のはかない創造者に立脚することになる。そして私は言うことができる。私は〈何ものにも〉私の原因を置かなかった、と」。

シュティルナーの書物の関心は三重であった。
すなわち、彼の先行者たちにおける再所有の不十分性についての深い分析。
弁証法と、自我だけが再所有の審級であるという自我の理論との間の本質的関係の発見。
自我による、自我における、弁証法の到達点であったものについての深い見識。

歴史一般ととりわけヘーゲル主義は、勝利するニヒリズムのうちに自分たちの帰結を、しかし自分たちのより徹底した崩壊を見出していた。
弁証法は歴史を愛し管理するが、しかし弁証法は、自分が苦しみ、また管理していないような歴史をそれ自身もっている。
一つに統合された歴史と弁証法の意味は、理性の実現でも、自由の実現でも、種としての人間の実現でもなく、ニヒリズムであり、ニヒリズム以外の何ものでもない。
シュティルナーは、ニヒリズムを弁証法の真理として明らかにする弁証法論者である。
彼にとっては〈誰が〉という問いを立てるだけで十分である。
自我という唯一者は、自我ではないすべてのものを無に引き渡し、またこの無はまさに自我自身の無、自我の無そのものである。
シュティルナーはあまりに弁証法論者であるので、所有、疎外、再所有という用語以外に別の仕方で思考することができない。
しかし、彼は多くを要求するので、このような思考が導く先を、つまり何ものでもない自我、ニヒリズムを見極めないはずがない。
───そのとき、『ドイツ・イデオロギー』におけるマルクスの問題は、そのもっとも重要な意味の一つを見出す。
すなわち、マルクスにとつての問題はこの運命的な滑走運動を食い止めることである。
彼はシュティルナーの発見、自我の理論としての弁証法を受け入れる。
或る点について、マルクスはシュティルナーが正しいと認める。
フォイエルバッハの人類は依然として一つの疎外である。
しかしシュティルナーの自我は、今度はブルジョア的利己主義の一つの抽象、一つの投影である。
マルクスは、条件づけられた自我に関する彼の有名な理説を練り上げる。
つまり、種と個体、類的存在と個別的存在、社会的なものと利己主義【エゴイズム】は、歴史的で社会的な諸関係に従って条件づけられた自我のうちで和解するということである。
しかし、これだけで十分なのか。
種とは何か、また個体とは誰か。
弁証法はその平衡点、その停止点を見出したのか、あるいは単に最後の転身を、つまりニヒリズム的到達点の前の社会主義的転身を見出したにすぎないのか。
実際には、弁証法と歴史が互いに鍛え合っている共通の斜面上でこの両者を食い止めることは困難である。
マルクスは目的の手前にある最後の段階、つまりプロレタリアートの段階を指摘する以外のことを為すだろうか。

<<引用ここまで。

 

 

 

 

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