目の前の貧乏を一寸でも救えなければ、哲学も宗教も政治も芸術も、糞だ。

ちょっとだけ、懐かしいのであった。

「貧者のイライラ」 は、奇数月毎にやってくるんですぅ………………
一回、ガラガラ・ポンしなければ、差は拡がるばかりで、「あじゃ・ぱー」 でんがな………………
「貧者のイライラ」 と書いただけで、胃からこみあげる胃液の味がする人は救われますぅ………………

僕は、イラッ の一寸手前で立ち止まり、
彼(マルクス)が、「階級的」 だと考えたものだけが 「階級的」 であるわけは無いと思うのです。
どんなに保守的でも、一人の目に見える貧乏人を救えたらエエのですが………………
一気にやってしまえ! と、ヘーゲル的な世界を連想すると、「理論」 のドグマに引きずり込まれるのだと、最近思いますぅ………………
史観?
いいえ!違います。
歯間ブラシは 「S」 ですけど、
違いますぅ………………

イラッ っとしながら、絶望は続くのです。
以下は、せめてエチカとパンセぐらいはネットで無料で読めるようにしましょうよ、
とのことです。
フラットな?電子テキスト? DOSテキスト? でないと、あきまへん。
電子本??(コピペ出来ない形式はいかん。)
銭を取るのは 「拒否」 します。

 

パンセ
パスカル 著
津田譲 訳
新潮社 昭和41年24刷

pp.320-323

引用ここから>>

五二三 すべての信仰はイエス・キリストとアダムとに成り立つ。すべての遺徳は邪欲と恩寵とに成り立つ。

五二四 人間は絶望するか高ぶるかこの二つの危険にたえずさらされているがゆえに恩寵を受けることもできるし失うことにもなる、このことを教えてくれる教説ほど、人間にとってふさわしい教説はない。

五二五 哲学者たちは、人間の二つの在り方に適う自覚をすすめてくれない。彼らは人間をただ偉大なものと考えるよう説いた、ところがそういう在り方を人間はしていない。彼らは人間をただ卑小なものと考えるよう説いた、ところがそういう在り方を人間はしていない。*本性から出る*卑小感ではなくて悔改【くいあらた】めによる卑小感が、*偉大さのうちにじっとしているためにでなくて*偉大さのほうに進んでゆくために、必要である。価値〔人間的なる力───訳者〕偉大さを自覚する心がではなくて恩寵の偉大さを自覚する心が、しかも卑小性というものをくぐりぬけて後に必要である。

五二六 みじめさを見れば絶望が納得でき、高慢を見れば自負心が納得できる。キリストの託身はいかに大いなる救いをほどこす必要があったかということによって、いかに人間がみじめであったかを人間に明示してくれる。

五二七 人間のみじめさを知ることなくして神を知ることは、高慢を生む。神を知ることなくして人間のみじめさを知ることは、絶望を生む。イエス・キリストを知ることは中間を得る。なぜなら我々はそこに、神をも我々のみじめさをも見出すから。

五二八 イエス・キリストは、一人の神であり、我々は高慢になることなくこの神に近づき、絶望におちいることなくその御足のもとに身をかがめる。

五二九 ……善を得る能力を我々に持たしてくれない堕落ではない、また、悪に染むおそれのない清浄でもない。(一)

(一)この文章は冒頭を「キリスト教において見られるものは」と補うことができよう。じっさい写本ではニコルらしい筆跡でそういう意味に捕われている。

五三〇 或る日私に或る人は語って、憾梅をすませたとき自分は大そう嬉しかった、また心の安らかさをおぼえたといった。また或る人は語って、自分はおそれおののきのうちから出られなかったといった。私はそこで考えた、この二人の者を一しょにしたら一人のよい者が出来そうだ、このおのおのは他の者の感情を持たないというところに欠陥があると。これと同じことはほかのことがらについてもよく起る。

五三一 主人の意【こころ】を知っている者は、一そうよけいに笞打たれるであろう、なぜならその者は主人を知る力をもっている。(一) Qui justsus est, justificetur adhuc.(二)なぜならその者は正義をおこなう力をもっている。最も多く受けた者は最も多く請求せられる、なぜならその者は助ける力をもっている。

(一)ルカ一二ノ四七「主人の意【こころ】を知りながら用意せず、又その意に従わぬしもべは笞打たるること多からん、されど知らずして打たるべきことをなす者は、笞打たるること少なからん」(二)黙示録二二ノ一二「義なる者はいよいよ義をおこなうべし」

五三二 聖書はあらゆる状態を慰めるための、またあらゆる状態をおびえさせるための章句を用意した。
自然は、自然界および遺徳界における二つの無限によって、これと同じことをしたようにおもわれる。なぜなら我々は、我々の慢心を引下げるため、また我々の卑小感を高めるために、上のものと下のもの、より多い能力のものとより少ない能力のもの、高いものとみじめなるもの、これらをつねに持つであろうからである。

五三三 Comminuentes cor.(一) 聖パウロ。これがキリスト教的性格である。
「*アルバは君を指名した*私はもう君を識らぬ」。(二)コルネイユ。ここに非人間的性格がある。人間的性格はこれと反対である。

(一)聖パウロにはこのままのことばは見当らないが「謙遜」(ピリピ書二ノ三)「心を卑きにつける」(ロマ一二ノ一六)などのことは度々説かれている (二)悲劇「オラース」Horace 二ノ三。紛争解決のためロマはオラース家を選びアルバの市はキュリアス家を指名した、両家はすでに姻戚関係にあったがここに互いに敵となりそれぞれの市の名誉をかけて決闘しなければならない、オラースはキュリアスにいう、ロマは私をアルバは君を指名した、もう私は君と何の縁もない。

五三四 二種類の人々だけがいる。
一はみずからを罪人と信じている義人。
他はみずからを義しいと信じている罪人。

五三五 我々は欠点を忠告してくれる人々に大そうおかげをこうむっている。なぜならこの人々は我々を苦しめ鍛えてくれる。この人々は我々が軽蔑されていたことを教えてくれる、が将来は軽蔑されないようにしてくれるかというとそれはそうではない、なぜなら我々は軽蔑されるに足る欠点をほかにもたくさん持っているのであるから。彼らは、矯正の実行、欠点の除去への心構えをさせてくれるわけである。

<<引用ここまで。

 

 

 

 

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