果たして何人の 「彼の言説」 を聞きし者が存在するだろうか?

マルクスの亡霊たち
ジャック・デリダ
増田一夫 訳
藤原書店 刊
pp.358-359

引用ここから>>

マルクスは、フロイトやハイデガーやすべての人もそうであったように、「始めることができる」(beginnen können)はずであったところから、そのものとしての 生以前、そのものとしての 死以前、すなわち憑在から始めなかった。
しかしその過ちは、おそらく彼に帰すべきではないだろう。
いずれにせよ過ちは、その定義からして、反復され、相続されるものであり、人はそれに対して注意をしなければならない。
それはつねにとても高くつくものである───まさしく人類にとって。
人類にとって高くつくのは、おそらく、Hauptgespenst 〔筆頭亡霊〕 しか、原-幽霊しか表象していないという口実のもとに、歴史において《人間》の一般的本質とは金輪際手を切れると信じることであろう。
だが同様に、それは───根底からすると───同じことに帰着するのだが、依然として、おそらく、その筆頭幽霊を信じることであるだろう。
信じやすい人々や教条的な人々がするように、それを信じることである。
種々の信憑のあいだの扉は、つねにそうであるように、狭いものであり続ける。
恐るべき代償について問うことに意味があるためには、未来を見守ることに意味があるためには、すべてをやり直さなければならないだろう。
しかし今度は、あの不純な 「不純な不純な幽霊たちの物語」 を記憶に置きながら。

<<引用ここまで。

こんな 「もの」 をよくぞ 「ものにした」 と思う僕。
でもね、
単体としての 「本」 として、聞くのではなく読んで?しまうと、
とんでもないことになること に気付かないといけないんだけどなぁ………

懸命なアカデミズムは、
必死な権力維持に向かうような、そうでもないような………

でもね、
「哲学を成せし人」 って、どうしてこんなに真面目なんだろうか?
僕は、「入れ子の・クラインの・弩・壷」 と 「弩」 を挿入せし名無しなので、
「批判」 どころか 「憑依」 もないのです。

解りますか?
2重3重にねじれ曲がった 「男」 の心情が!?

 

 

 

 

 

 

 

 

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