戦勝国の哲学

まあ、普通は気づかないでしょうね。
現実は、彼らのバカンスにびっくりして、夏休みにはパリ旅行は出来ないことになってしまう。
『どうやって?喰ってるんだろう?』
と、思わない人は、モーツァルトを聴いても解らない………

僕は、ゴッホ、ピカソの絵画がエエと思ったことは一度もないです。
なんでだろ?

バタイユの本が本格的に理解できる時間軸が、ブランショよりもだいぶ後だというのが問題なんです。
ドイツはヒトラーに 「持って行かれて」 全然駄目だった時期ですぅ………
西谷修さんの講演会にカクマルが 「誰が参加するか?」 と監視していたのを僕は実感しました。最後のほうで 「親鸞」 へ、パロールを持っていくところが、
流石!インテリ!アカデミックぅ!
って、思ったのです。

さてと、
本は 「銭」 ですぅ………「貧乏」 は、果てしなく疎外されるのです。
引用も未だにOCRしかないという不自由なハイパー・テキスト・脳・足りん、ですぅ………
マリリンモンローと掛けてあります。(=しつこい注釈の例です。)

明かしえぬ共同体
モーリス・ブランショ
西谷修 訳
朝日出版社

この本について、庄田常勝氏から沢山質問されたのですが、
「答えることは、あなたを反革命にするかもしれません。」
と、僕。律儀でしょ?

引用ここから>>

否定的共同体

『共同体をもたない-人びとの共同体』G・B

ジャン=リュック・ナンシーの意義深いテクストを糸口に、私は、決してとだえることはなかったがときおり言葉にされるにすぎなかったあるひとつの考察を、改めて取り上げてみたいと思う。
その考察とは、共産主義のもつ要請に関するものであり、また、共同体を見失いそれが何であるかを理解することすら困難になってしまったかに見える時代において(だが、共同体とは了解という事態の埒外にあるものではなかろうか)、その共産主義の要請と共同体の可能性あるいは不可能性とがいかなる関係にあるのか、ということをめぐるものであり、さらには、共産主義、共同体、といった語が含みもっていると思われる言語の欠陥に関するものである。
これらの語が、ある集合体、あるグループあるいはある評議会、団体等に所属している───いかなるかたちにもせよそこに統合されることは肯んじないとしても───とみずから信じてもいるだろう人びとの間に、共有されているようなものとはまったく別の何ものかを担っているのだということを私たちが感じとるならば、それはおそらく無視することのできない欠陥であろう。

共産主義、共同体

共産主義、共同体、といった用語は、歴史が、そして歴史の壮大な誤算が、破算と言うをはるかに越えたある災厄を背景にしてそれらを私たちに認識させる限りで、まさしく一定の意味を帯びた用語である。
辱しめられた、あるいは裏切られた概念というものは存在しない。
あるのはただ、おのれ自身の-従って自身に背く放棄(単なる否定ではない)なしには「しかるべき」ものとはならない概念であり、そうしたものこそ、私たちが安んじて拒否したり忌避したりして済ますことのできないものなのである。
望むと望まざるとにかかわらず、私たちはまさしくそうした変節によってこれらの語と結ばれている。
こう書きながら私は、エドガール・モランの次のような一節を読んでいる。
これはおそらく私たちの多くが首肯しうるものだろう。

「共産主義は私の生涯の大問題であり、私の生の基本的な体験でもある。
共産主義が表明しているさまざまな憧憬を私はつねに自分のものと感じてきたし、ある別の社会、ある別の人間存在の可能性を私は今も信じている。」

素朴な物言いとすら思われようこの単純な断言は、ほかならぬその廉直さを通して、私たちが避けて通ることのできない当のものを語っている。
すなわち、それ自身の不可能性を何らかのかたちでいつも巻き添えにしているこの可能性とはいったいいかなるものなのか、なぜそうなのか、という問いを。

共産主義が平等をその基盤とし、あらゆる人間の欲求がすべて平等に満たされる(それ自体は最小限の要請である)ことのない限り共同社会はありえないとするものであるならば、共産主義が想定しているのは完全無欠な社会ではなく、透明な人類という原理、つまり人類が本質的にはおのれ自身によって産出されその意味において「内在的」(とジャン=リュック・ナンシーは言う)である───人間の人間に対する内在───という原理である。
このことはまた、人間を絶対的に内在的な存在とみなす
ことを意味している。
なぜなら、人間は徹頭徹尾営みであり、おのれの営みの所産であり、最終的には全体の所産としてあるからであり、またそうなるべきものだからである。
人類から自然にいたるまで(そして神にいたるまで)人間の手によらずして造られたものが何ひとつあってはならない、とヘルダーは言う。
窮極的にはその余はない。
一見きわめて健全に見えるこの論理は、最も不健全な全体主義の原点である。

一方、絶対的内在というこの要請を保証すべくこれに呼応しているのは、人間が(彼はおのれ自身の平等の基準であり、おのれ自身を規定するものである以上)純粋な個的実在として、全ての者に開かれているがゆえにいっそう閉じた実在として、おのれを措定することを妨げる、そうしたいっさいのものを解体することである。
個人は、譲渡不可能な諸権利を身に備え、おのれ以外に起源をもつことを拒否し、そして彼同様の一個人であるとはみなされない他者に対する理論的な依存関係にことごとく無関心であることによって、おのれを宣明する。
つまり個人はそれ自身、過去においてであれ未来においてであれ際限なく反復されるものなのだ───そのようにして死すべきものであるとともに不死のものでもある。
すなわち、おのれを疎外することなしには永続しえないというその不可能性において死を免れず、また彼の個別性は内在的生にほかならずこの生はそれ自体終末をもたないものである以上、彼は不死なのである。
(サドやシュティルナーの思想が、そのいくつかの原理に還元されたときに示す有無を言わせぬ力はそこに由来している。)

<<引用ここまで。

 

 

 

 

 

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