チャイナ・シンドロームとウォシュレット。

恐怖を煽る必要性───しかも、過激に………
なんちゃって 「書き出す」 と、駄目なんだろうか?

ウォシュレットの必要性は脳性麻痺者の場合、悲劇的に必要で、
キリスト者の比ではない。
僕は、頑固で、意地悪で、意固地で、心気臭くって、やーらしい?のかな?
テキストだけで?

文明は高い方にしか流れない。

ということをモンゴルへ出かける人達に言っていたんですぅ………

アカデミズムの内側に対向するのに原典を持ちだしても駄目なんです。
ファシズムとは、ネズミの集団自殺みたいなもので、人類は繰り返さないと 「高み」 に登れない?
違います!
きっちりと原則を守らせればエエんです。
そのうちに息苦しくなって、自分も嫌になりますぅ………

あああ、ウォシュレットの無料配布運動があれば、清潔に生きれるのにィ………で・な・け・れ・ば・手にウンチがぁ………

不安な癖に、陽気に振る舞う奴は嫌いだ。

はははははははははははははははははははははははははははははははは。

解体と脱構築は、意味が違う。
「当てはめ」 が上手な世界がアカデミズムで、「ハメ手」 が上手なのが政治屋さんだ。
JR と言えば、経営陣も労組もカクマルじゃなえーか!
「銭」 の匂いに敏感なのは、創価学会と似ている。
金沢や、ストーロされても、今日だけ銭………おそまつでした。

哲学を自己慰安や金持ちの道具にさせないで、おこう!
利用できそうな 「箇所」 は、徹底的に潰そう!
新自由主義の哲学は 「金目」 だけなのを立証して、息苦しくさせてやろう!
吾我はへたり込むぞう!
それでも頭はあるんだから、不思議だね。

だんだん分かり易くしていってる、ですって!
とんでもない!
ハイパーですから、余計にややこしくなる著作権資本主義ですがな。

 

 

無為の共同体
バタイユの恍惚から
ジャン・リュック・ナンシー
西谷修 訳
朝日出版社

から、引用ここから>>

バタイユはおそらく、現代における共同体の運命に関する決定的な体験を最も遠くまで辿った人物である。
かれの思考に寄せられている関心は、いずれにせよあまりに乏しいもの(浮薄なものでないとすれば)だと言わねばならないが、その関心の中でも、この思考がどれほど深く政治的な要請と気懸りとに発したものであったかということは、いまだ十分に着目されていない。
バタイユはのっけから「裏切られた」共産主義の洗礼を受けた。
後になって彼は、この裏切りが矯正しようのないものであり、共産主義が人間を目的とし、人間と、生産者としての人間の生産を目的としている以上、その原理においてすでにそれは人間の至高性の否定に結びついている、つまり人間のうち「人間」の内在性に還元できないものの否定に、有限性のもつ至高な過剰の否定にむすびついているということを発見したのである。

マルクス主義者にとって、有用なものの彼方にある、ある価値を想定することは可能だし、そうした価値を想定するのは避けがたいことですらある。
しかしかれらにとってはそれは人間に内在しているか、さもなければ存在しない。
人間(それも生きた人間、もちろん現世に)を超越するもの、あるいはまた同様に通常の人間性(特権的でない人間性)を越え出るものは論議の余地もなく認められない。
至高の価値は人間にあるのだ。
つまり生産が唯一の価値だというのではなく、それは人間のさまざまな欲求に答える方途であるにすぎず、生産が人間に奉仕するのであって、けっしてその逆ではない。(……)
とはいえ、共産主義が生産は人間のためにあると言うその人間が、その至高の価値を手にしたのは、真の意味で至高なもののいっさいをわが身のために放棄したという第一条件があってはじめてのことなのではないかと疑ってみる必要がある。
(……)人間は情熱的に、きまぐれに、還元不能な欲望であるはずなのに、共産主義はその欲望を、生産にひたすら心奪われた生と折り合いを付けることのできる、われわれの諸欲求に発する欲望にとって代えたのだ。(Ⅷ・三五二-三五三)

その間、三十年代には、ソビエト国家が反抗からかすめ盗ってしまった灼熱のたぎりをもう一度反抗に返したいという革命への内的擾乱と、過剰へと捧げられた緊迫した共同体の、現実とは言わないまでもその意味を示していると見えたファシズムによる魅惑とが、バタイユのうちで結びついていた。
(バタイユの場合でもその他の何人かの場合でも、この魅惑を無視してすますことはできない。
おぞましいファシズム、そして資本の寄る辺としてのファシズム、その唾棄すべきファシズムはまた、どっかりと腰を据え既に息苦しくなっていた社会の支配に対抗しようと───おぞましく、唾棄すべきしかたで───意図してもいたのだ。
それは合一の脅迫観念のグロテスクでおぞましい激発であり、「失われた」合一、合一への郷愁というモチーフと、融合としてのそのイメージを結晶させたのである。
この意味でファシズムはキリスト教の激しい痙攣であり、近代のキリスト教世界全体を魅了したのだ。
この領域では、いかなる政治的-道徳的批判も、それが同時に合一のシステムを脱構築しうるものでなかったら有効な批判とはなりえない。)

<<引用ここまで。

 

 

 

 

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