趣味:哲学、特技:大酒のみ、嫌悪度:最高を目指す(名差しはしないけど。ウフッ。)

頭が海胆になっている。
もちろん、海胆は 「ウニィ、ウニ」 というか 「ぐちゃ、ぐちゃ」 の擬音効果である。祇園精舎ではない。念のため。↓。

最初辺りから、ある予感を含んだ 「展開」 をしていくであろうと、「読める」 だけで、ヘーゲルがそう考えた、か、どうか?とは、別問題なんだけど、
教条主義者は、予言を無理矢理組み立てるのが好きなんで、仕方がない。

バタイユは、非常に良く戦った、スケベなおっさん・煙幕・達人 であったような気がする。
まあ、
個を肉と考えて根源を目指したら、変態なのかもしれんけど、決して、右翼的に利用できるような、薔薇族的な 「解釈」 は成立しないと、僕は、思う。
あっと!
思う。だけで、考えるとは書かない。

はははははははははははははははははははははははははははははは。

澁澤 訳 のようにカッコウをつけるのは、彼に対して失礼な気がする。
間違えないでね、「気がする」 と書いているだけ、ですぅ………………

以下、僕なりに少しだけ 「変形されたテキスト」 をどうぞ。
強調は、編集をある程度無視し、自分で赤線を引いたように、強調した。
引用を下へ移したのは、読まんでも別にエエやっ!って、思い出した?
考え出した?言説し出した?(文法上は成立しないでしょ?ウフッ!)からですぅ。
しっかし、いかに 「うさるかしい奴」 か?解る気がする。
(うざるかしい、は、金沢弁で、ハエがたかるような面倒な、という意味です。)

引用ここから>>

書物のはじめに序論がつけられる場合、そこでは、ふつう、その書物で著者がめざした目的、著作するにいたった動機、同じ問題をとりあつかった古今の著作に対する関係などについて説明されることになっている。 しかしこうした説明は、哲学上の著作においては余計であるばかりでなく、ことがらの性質上、不適当であり、害にさえなる。 なぜなら、ふつうの例にしたがい、
哲学について序論で語るのに、どんな仕方で何を語るのがふさわしいかといえば、さしずめ、
意図や立場、
内容の概略や成果などを並べたてて話すこと、
つまり真理として主張され断言されるあれこれのものを寄せ集めることであろうが、これは、
哲学的真理を述べるための正しい仕方ではありえないからである。

ところで哲学というものは、本来、特殊的なものを自分のうちにふくむ一般性というエレメント(1)において成立するものである。
そのため哲学の場合には、ほかの学問の場合より以上に、目的や最後の結果においてことがらそのものが完全に本質的な形で表現されており、それを実現する過程のほうは、もともと非本質的なものだ、というように見られやすい。

これに反し、たとえば解剖学について、 それは生命のない現存在の相において観察された身体諸部分の知識である、 といった一般的な観念をもっていても、それだけではまだことがらそのものを、すなわちこの学問の内容を得たことにならず、 さらに進んで特殊なものを知るように努めねばならない、
ということは、人々がよくわきまえているところである。

──しかも、そのさい、つぎのような事情がある。 この解剖学におけるような知識の集積は本当は学問の名に値しないのだが、そこでは、目的その他の一般的なことについての話が、内容そのものについて、すなわちこれこれの神経や筋肉などについて語られるときと同様、ことがらを並べたてるだけの無概念的(2)な仕方でなされるのが常である。ところが哲学でその真似をすると、くいちがいが生ずるであろう。すなわち、そうした語り方が用いられながら、それが真理をとらえる能力をもたないことが、それ自身によって示される、ということになろう。

他方、また、ある哲学的著作が、同じ対象についての他の諸研究に対してどのような関係をもつか、ということを規定しようとする場合にも、そこに異種の関心が入ってきて、真理の認識において基本となる事態がくもらされるものである。
というのは、 人々の意見にとっては、真と偽との対立がまったく固定したものになっているため、人々は哲学においても、あれこれの説に対して賛成か反対かのいずれかの態度をとろうとし、一つの哲学説について説明が与えられれば、それは賛否のどちらなのかというようにしか受けとらないのが常である。

人々は、哲学説のあいだに差異があるのを、真理が進歩してゆく発展過程としてとらえることなく、差異のなかに矛盾しか見ない。
──花が咲けば蕾が消えるから、蕾は花によって否定されたと言うこともできよう。
同様に、果実により、花は植物のあり方としてはいまだ偽であったことが宣告され、植物の真理として花にかわって果実が現われる。
植物のこれらの諸形態は、それぞれ異なっているばかりでなく、たがいに両立しないものとして排斥しあっている。
しかし同時に、その流動的な本性によって、諸形態は有機的統一の諸契機となっており、この統一においては、それらはたがいに争いあわないばかりでなく、どの一つも他と同じく必然的である。
そして、同じく必然的であるというこのことが、全体としての生命を成り立たせているのである。

──ところが一つの哲学説に反対がとなえられる場合、反対をする人の常として、このような仕方で自分自身のことを理解することがない。
また、この事態を受けとる人々の意識も、一般に、矛盾しあう両論をその一画性から解放して自由な態度で受容することができず、対立し争いあっているかにみえる形態のなかに、相互に必然的な諸契機を認めえないでいる。

ところが、上にあげたような種類の説明を要求したり、それを果たしたりすれば、それでもう何か本質的な仕事になっているかのように思われやすい。
ある哲学的著作の核心がもっともよく表明されているところは、目的と結果以外のどこでありえようか。
そして、その目的や結果は、同じ領域でその時代に産み出された他のものとの差異を通して、もっとも明確に知ることができるではないか、というわけである。

しかしながら、もしこうした仕事が、たんなる認識のはじめよりも以上のものであり、実際に認識を得ることだと主張されるならば、それは一種の欺瞞であることになる。

というのは、ことがらそのものを回避し、それを求めて真剣に努力することを実際上は怠りながら、そう見せかけているのだからである。 あることがらにかんし、問題は、目的とされているもののうちにつきるのではなく、それを実現する過程のうちに存する。

また、結果がただちに現実的な全体ではなく、その結果を生ずるにいたった生成とあわせて全体なのである。

目的は、それだけが取り出されるならば、生命のない一般的なものにすぎないということは、それに向かう意図が、まだ現実性をもたないたんなる駆りたてにすぎないのと、同様である。そして、むきだしのままの結果は、それに向かってきた動きから離れた屍にほかならない。

──同様に、差異ということは、ことがらそのものに属するよりは、それの限界であり、ことがらが終わるところに存するもの、言いかえれば、ことがらがそれでないところのものなのである。

(1)「エレメント」は、ふつうには「元素」「要素」という意味である が、ヘーゲルが使う場合には、たいてい、「事物が、それぞれの本性上、本来そこで存在し、そこで生活をいとなむ固有の環境」といった意味合いが主になっている。慣用句としても、ヨーロッパの多くの同語において、この語が、「本領が発揮できる場面」「得意の境地」という意味になる場合がある。「水を得た魚」というが、魚にとって水がエレメントである。──この箇所では、さしあたり、哲学はものごとをとくに概念的に一般化した相において問題にするというのであるが、やがて、それが抽象的な固定した一般性であってはならないことが強調される。

(2)ヘーゲルが「概念」というとき、この言葉は非常に強い意味をもつ。 それは、事物についてわれわれが抱いている一般観念とか、あれこれの言葉について辞書に書かれているような意味内容といったことにつきるのではなく、事物自身の内的本質とその連関をあらわし、ほとんど、事物を構成している原理そのものと考えられている。 やがて論ぜられるように、こうした概念の自己運動を把握することが、すぐれた意味での「学問」だというのである。 くわしくは、本書の解説三八ページ以下および五〇ページ以下参照。

<<引用ここまで。
精神現象学 序論 ヘーゲル 山本 信 訳  世界の名著 35 中央公論社 昭和42年3月20日 初版

 

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