64ビットでは、メモ帳が素直に反応している。

こんなものやってられるか!
馬鹿馬鹿しい。

なんて、思いながら、故人を偲んでいるんです。
極、初期の解放派のダイナミズムを知らないと 【組織論】 でしょ!?
なんて、やられて、お終い、みたいになります。

デリダ!?
そんなに難しく考えないで、感じて下さい。
【知性のあり様(よう)】 なんですよ。
ま、
まあ、
僕は、【根幹のかけら】 ですから、【歯肉炎の磨き残し】 みたいなものですから、どーでもエエですけど……
困ったもんで、
未だに、マックの方が多国語の扱いが上手です。
もっとも、
僕のウィンドウズの使い方は、【日本的な合言葉だらけ】 ですけど。

以下は、間違っていても、直すの、Я です。
かなり省略しないと、メモ帳では、メンドーで仕方がない。
ですから、テキトーです。スペル?など間違っていたら、自炊して下さいませ。
改行は、改心しないと治らない?かな?

他者の耳
デリダ「ニーチェの耳伝」・自伝・翻訳
CL.レヴェック.C.V.マクドナルド 編
浜名優美.庄田常勝 訳
産業図書 刊 ISBN4-7828-0046-0 C3010 \2200E

pp.3-7.

引用ここから>>

第一章 生ける女(もの)のロジック

……一つのものをあまりに多く持ちすぎる以外には、すべてに欠けている人間たち──一つの大きな目、あるいは一つの大きな口、あるいは一つの大きな腹、あるいは或る何らかの大きなもの以上の何ものでもない人間たちだ──わたしはこのような者たちを逆のかたわ者(umgekehrte krüppel)と呼ぶ。
 かくて、わたしが自分の孤独から抜け出て初めてこの橋を渡って行ったとき、わたしは自分の目を疑ったのだ。わたしは一度二度と見やって、ついに言った。《あれは一つの耳だ! 人間ほどの大きさがある一つの耳だ!》わたしはいっそう子細に見やった。するとじっさい、その耳の下には、さらにふびんたはど小さく、貧弱で、やせぎすな何ものかが動いていたのだ。そして本当に、その巨大な耳は一本の小さな細い柄(え)の上に乗っかっていた──その柄はなんと一人の人間であったのだ! めがねを目に当てて見る者は、さらに一つの小さな嫉妬深い顔をすら認めることができたし、また一つの腫れぼったい小さな魂が柄にぶら下がっているのも認めることができた。だが民衆はわたしに言った。その大きな耳は単に一人の人間であるにはとどまらないで、一人の偉大な人間、一人の天才である、と。しかしわたしは、民衆が偉大な人間について話すとき、決して民衆の言うことを信じなかった──かくてわたしは、その大きな耳が、すべてにおいてあまりにも少なく、そして一つのものにおいてあまりにも多く持つ一人の逆のかたわ者である、というわたしの信念を持ち続けた。
 ツァラトゥストラは、せむしに向かって、またせむしを口述者とし代弁者(Mundstück und Fürsprecher)とする者たちに向かって、このように話し終わると、深い不満の念をいだいて彼の弟子たちのほうに向きなおり、そして言った。
 「まことに、わが友たちよ、わたしが人間たちのあいだを渡り歩くこと、人間の断片と手足(Bruchstücken und Gliedmaeßn)さながらに、人間が打ち砕かれ(zertrummert)散乱している(zerstreuet)のを見いだすことは、わたしの目にとって恐るべきことである!」                 

(『このようにツァラトゥストラは語った』第二部〈救済について〉)

 私としては、あなた方が退屈し、時間を無駄にし、あの奴隷化──つまり、話の脈絡をつけるとか、さまざまな前提や前に述べられたことを引き合いに出すとか、これまで取ってきた道筋、方法、システムといったものを自己正当化するとか、手際に巧拙はあれさまざまな論点を渡り歩くとか、切れ目なく続いてきたものをあらためて立て直すとか、そういったことに取りかかる場合には、いつも生じてくるあの奴隷化──に陥るのを避けておきたい。こうした奴隷化のファクターと同じ数だけ、さまざまな古典的教育論の至上命令があるわけであるが、とはいえ決してそれらと決定的に手を切っているわけではない。そうした至上命令に厳格に従っていたとすれば、あなた方はただちに沈黙に、同語反復に、繰りごとに引き戻されてしまったことだろう。
 そこであなた方に私の妥協案[compromis]を提示しておこう。アカデミックな自由、〈ア─カ─デ─ミ─ッ─ク─な─じ─ゆ─う〉という語において、この妥協案を取るべきか捨ておくべきかは誰もが知っている。私が自由に使える時間、私もまた自分としては避けたいと思っている退屈、私の手のうちにあり、またぜひとも守っておきたい自由、これらのものを考慮に入れた上で話に取りかかることにするが、そのやり方については、或る人々はアフォリズム的で承認しがたいものと判断し、また或る人々は掟のように受け入れ、さらにまた或る人々は──私の取る道筋の一貫性と連続性を、最初の数語、タイトルそのものからしてすでにはっきりと把えてしまうような耳で(すべてはあなた方が私を聴き取っている[m’entendre: 理解している]耳に帰着するわけであるが)私を聴いているがゆえに──あまりにアフォリズム的でなさすぎると判断することであろう。いずれにせよ、次のことを聴き取って[entendu: 了解事項として]いただきたい。すなわち、誰であれこれ以上ついて来たくない者は、そうすることができる、ということである。私は真理をそれ自体において[en soi: 即日的に]教えるわけではない。私は永遠の教育論なるものの透明な代弁者に自分を変身させるわけではない。私は、自分にできるだけ、或る一定数の問題を、あなた方とともに、私ないし私とともに、そしてあなた方を通じて、私および私を通じて、ここに代表されているかなりの数の権威ある人々とともに、解決〔調整〕する。私は、自分が今ここで占めている場所を、展示ないし舞台ということから抜き去らないようにするつもりである。いわんや、先を急いで私が自-伝的[auto-biographique: 自-生-記的]論証と呼ぶことにするもの──ただしその意味を少しずらし、もう一つ別の耳で聴いてくれるよう、あなた方にお願いするが──は抜き去らないようにしたい。私としてはこの自伝的論証なるものを或る程度楽しんでみたい、あなた方に私からこの楽しみを学び取っていただくためにも。
 右に述べた「アカデミックな自由」、耳、そして自伝なるもの、これらが──今夕の──私の対象である。
 生-死[la-vie-la-mort]についての一つの言説(ディスクール)は、ロゴス〔言・論〕とグランメー〔書き記されたもの〕、アナロジーとプログラム、さまざまな意味でのプログラムと再生(ルプロデュクシオン)〔復元〕 の間に、或る一定の空間を占めているはずである。そして生というものが問題となっている以上、ロジックなもの〔学・論的なもの〕とグラフィックなもの〔書記的なもの〕を関係づける線[trait: 特徴]は、生物学的(ビオグロジック)〔生-論的〕なものと伝記的(ビオグラフィック)〔生-記的〕なものの間、死-論(タナトロジック)的なものと死-記的(タナトグラフィック)なものの間でもまた大いに働いているはずである。
 周知の通り、これらすべては今日、評価の見直しが行なわれている。これらすべてとはつまり、自伝〔自-生-記〕的なもの[autobiographique] に含まれている伝記〔生-記〕的なもの[biographique]とアウトス[autos: 自己・同一]とである。

<<引用ここまで。

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