信じる者は疎まれる。あるいは根幹の欠片に。

一日何時間?眠るのだろうか?
3時のおやつを過ぎて目覚め、もう一度眠ろう……
僕の眠りと交換できる供犠って、なぁにぃ??

「選ばれし者」 の根拠は?
現実に何かを得し者となってしまう現代、
入れ子の哲学はそれに従事するものを十字架に賭け(誤殖ではありません。念のため。)、なおかつ百に刻み、千の風にものせず、腐乱するぅ。

交換以前の問題として、なんとかマルクスの 「たわごと」 を迂回しようとしたり、
何かと別の概念を持ち出すけれど、
今のところ、全部失敗しているように思う。
何故か?
何故か?
何故か?
最初から 【哲学を生きる哲学】 ではなく、
思念を外的な生成物として類的に捕らえ返す離れ業を習得出来ないからだと思うけど、それを言うと革命的地平とか実践的経験とか党の歴史とか、くだらねー場所へ行ってしまう。
叛旗以上の 【吉本的な前近代的個の集団自己否定による超克の抹殺】 を超えた 【止揚】 が必要な気がする。
まあ、
気がするだけで、【名を為すことを否定せし者】 が、何を言おうが、
路傍の意思でんがな………………

なんで?人は、結論を急ぐのかなぁ?
もうちょっと、前戯を楽しまないと嫌われますぅ。
沈黙という名の前戯は、意味がないです。(=エッチな僕。)

以下、どーでも良くなってきた。本格的に。でもね、僕が自分で新左翼運動に加わっていった過程を演じているのです。
過程の自浄ですがな。
南無阿弥陀仏。

ニーチェ全集 第三巻(第1期)
遺された断想(1869年秋-72年秋)
谷本慎介・清水本裕 訳
白水社

pp.454-459.

引用ここから>>

1871年初頭 10[1]

遺された断想

こうした恐ろしい生存闘争の中から浮かび上がることができるのは、個別の入間たちのみである。
今や彼らは、自然がきわめて忌み嫌う状態たる実践的悲観論にだけは行き着くことがないようにと、ただちに繰り返し芸術的文化の幻影に没頭する。
ギリシア世界と比べればほとんど奇形と怪物(ケンタウロス)しか創り出していない近代世界にあっては、個別の人間というも、ホラティウスの『詩論』の冒頭に出てくる荒唐無稽の存在のように、断片の雑多な組み合わせでしかないのであるが、このような近代世界にあっては、同一人物の中に生存闘争への渇望と芸術への欲求への渇望とが往々にして同時に現われる。
かかる不自然な合体から、生存闘争への渇望の方を芸術への欲求に対して弁解し、いわば神聖に浄める必要が生じたのだった。
そしてそれは、人間および労働の尊厳というあの結構な観念によってなされたのである。
ギリシア人は、このような哀れむべき間に合わせをなんら必要としない。
彼らにあっては、労働は一つの恥辱であることが率直に言明されている。
──それはなにも生存が一つの恥辱だからというわけではなく、かろうじて生き続けるためにあくせく闘っている人間はしょせん芸術家になれるはずがない、という不可能性の感情があるからである。
古代においては芸術への欲求を持つ人間が、かかる人間に固有の諸概念を手に支配している。
しかるに近代では、奴隷が諸観念を規定している。
すなわち、奴隷たる者はその本性上、生きうるためには自分のあらゆる状況を欺瞞的な輝かしい名称で言い表わさねばならないのである。
人間の尊厳とか、労働の尊厳とかいうような幻影は、自分を自分自身に対して隠蔽する奴隷階級から生まれた貧しい産物である。
奴隷が自分について、また自分を越えて、深く省察するよう煽り立てられた時代とは、なんと不吉な時代であろう! 奴隷の無垢な状態を認識の木の寒によって破壊してしまった人たちは、なんと不吉な誘惑者であろう! 今や奴隷たちは、ただただ生きることができるようにと、「万人の同権」とか、人間という類存在の有すべき「基本的人権」とか、あるいは労働の尊厳とかの、深い洞察者なら誰でもそれと見破ってしまうような明々白々たる虚偽をもって、自分をこの世につなぎとめておかねばならない。
「尊厳」などという言葉をどうにか口にできるのは、人がいかなる地点、いかなる段階に達してはじめて可能なのか、そういうことを理解するというのは奴隷たちには実際不必要なことである。
「尊厳」などを口にしてよいのは──ギリシア人はこの場合にさえ決してそれを口にすることを許してはいないが──、個人が完全に自分自身を超越して、個人的に生き延びていくために生産や労働に従事するという必要が、もはやなくなっているような場合なのだけれども。
「労働」のこれほどの高さに達した場合ですらなお、ギリシア人はかつてと同じごまかしを知らない素朴さを保っている。
色あせた亜流と呼ぶべきあのプルタルコスさえもなお、ギリシア的本能を豊富に有しており、それゆえ彼はわれわれに次のように言えるのである。
高貴な生まれの青年なら、ピサでゼウスの神像を見ても、みずからフェイディアスのような者になりたいなどという欲求を持たないであろうし、アルゴスでヘラの像を見ても、みずからポリュクレイトスのような者になりたいという望みを持つことはないであろう。
また同じように、アナクレオンやフィレタスやアルキロコスの詩をどんなに楽しんで読んだとしても、彼らと同じような存在になりたいとは思わないであろう、と。
すなわちギリシア人にとっては、芸術的な創造すらも労働という不名誉な概念のうちに入るのであって、その点ではあらゆる俗っぽい手仕事と同じなのである。
ただし芸術的な衝動の強制する力が彼の内部で働く場合になると、彼は創造しないわけにはいかないし、かの労働の苦しみを引き受けないわけにはいかない。
父親というものは、わが子の美しさと才能に感心しながらも、その出生のための行為を思うと羞恥のこもった嫌悪に襲われるものであるが、ギリシア人の場合も事情は同様であった。
美に対する快い驚きも、美が生成する過程に関してギリシア人の眼を眩ますことはなかった。
美の生成過程は、ギリシア人には、自然における創造のすべてと同様に、生存への激烈な急迫であり貪欲な殺到であると見えたのである。
生殖過程は──人間はそこにおいて個体保存よりももっと高い目標に仕えているにもかかわらず──羞恥心をもって包み隠されるべきものとみなされるのであるが、それと同じ感情が、偉大な芸術作品の成立をもヴェールで覆い隠している。
生殖によって新しい世代が開始されるのと同じように、芸術作品の成立によって一段と高い生存形式が開始されるのだというのに。
そんなわけで元来羞恥は、人間が、個体という個別的形態にある人間自身に想像が許されているよりも、はるかに大きな意志現象の道具にすぎないというような場合に、まさしく現われるものらしい。
今やわれわれは、ギリシア人が奴隷制度や労働に関して抱いていた諸感情を整理するのに役立つ一般的概念を手に入れたわけである。
奴隷制度も労働も彼らにとっては、人が羞恥を覚える必然的な恥辱とみなされていた。
この羞恥の感情には、次のような無意識の認識が隠されている。
すなわち、本来の目槙が奴隷制度ならびに労働という前提を必要とするのであるが、まさにこの事実の中に、自然──芸術的に自由な文化生活を意図的に称えているときにはあれほど美しく処女の肉体を差し出している自然──というスフィンクスの恐ろしさと猛獣性とが存する、という認識である。
教養というものを私は、なかんずく、まぎれもない芸術への欲求であると理解しているけれども、この教養は一つの恐るべき基底を有している。
そしてこの基底は、おぼろげな羞恥の感情の中にみずからの正体を明かしているのである。
一段と高い芸術発展のための土壌が存在するためには、少数の者に奉仕する途轍もない多数の者が、その個人的な必要性の程度を越えて、奴隷的に生活苦に限していなければならない。
芸術への欲求の新しい世界を今や産み出すためには、彼ら多数の者の犠牲によって、彼らの大衆労働によって、かの選ばれた階級が生存闘争を免除されていなければならないのである。
以上の次第で、われわれは、奴隷制度は文化の本質に属するものであるという認識を、残酷とはいえあらゆる教養の根幹をなす条件として立てることに同意しなくてはならない。
こうした認識は、生存を前にしただけでもう甚だしい戦慄を産み出しかねない認識である。
それは、文化のプロメテウス的な推進者の肝臓を食い散らす禿鷹である。
若干のオリュンポスの人間たちに芸術世界の生産を可能にするためには、苦労して生きている大衆の悲惨さがなおも高められねばならないというわけだ。
ここに共産主義者や社会主義者や、さらにまた彼らの色あせた後裔である自由主義者という生白い人種が、いつの時代にも諸芸術に対して、しかも古典古代に対して抱いてきた、隠されていても見え見えのあの憤怒の源泉がある。
実際、文化が民衆の意のままになるような場合には、すなわち個人にとって掟であり制限でもある不可避の権力が文化を掌握していないような場合には、文化の軽蔑、精神の貧困の賛美、芸術への諸要求の偶像破壊的根絶が起こり、それは無為徒食の個人に対する抑圧された大衆の反乱というようなものをはるかに凌ぐものとなるだろう。
そのときには、同情心の叫ぶ絶叫が文化の城壁を押し倒してしまうだろう。
公正を求める衝動、苦しみの均等を求める衝動が、他の一切の観念を押し流してしまうだろう。
事実、過剰なまでの同情心が、かつて短い期間ではあるが、あちこちで文化生活のあらゆる堤防を打ち壊してしまったことがあった。
すなわち、同情的愛と平和の虹がキリスト教の最初の登場とともに現われ、この虻の下に、その最も美しい果実というべき『ヨハネ福音書』が生まれたのであった。
他方、強力な宗教が長い期間にわたって文化を一定の程度におさえ、いわば石化させてしまうという事例も見られる。
たとえば、エジプトの数千年前の木乃伊(ミイラ)的文化のことを考えてみるがよい。
けれども一つだけ忘れてはならないことがある。
それは、われわれがあらゆる文化の本質のうちに見出したのと同じ残酷さが、あらゆる強力な宗教の本質のうちにも存在するという事実である。
それゆえ、一つの文化が公正を求める叫びをあげて、宗教的諸要求のあまりにも高く積み上げられた防塁を打ち壊してしまうということがあっても、それはわれわれにとって同じく十分に理解できることだと言えよう。
かかる恐るべき事態のなかで生きようと欲するもの、すなわち生きざるをえないものは、その本質の根底において根源苦と根源矛盾の模像であり、したがって「現世向き、地上向きの器官」であるわれわれの眼には、それは意志として、すなわち生存への飽くなき渇望として映らないわけにはいかない。
そんなわけでわれわれは、壮麗な文化を、凱旋行列の際に敗者たちを奴隷として車に縛りつけて引きずってゆく、血のしたたる戦勝者になぞらえてもかまわない。
ある慈善を施す力がこの奴隷たちの眼を眩ませてしまったので、彼らは車輪にほとんど潰されそうになりながら、それでもなお「労働の尊厳!人間の尊厳!」とわめいているのである。

もちろん、近代人は以上とはまったく別の柔弱な物の見方に慣れている。

近代人は決して生存というこの恐ろしい氷流に思いきってすっかり身を委ねようとはせず、岸辺をただ心配そうに右往左往するだけであるため、永遠に満ち足りることがない
「破綻」を内包した近代は、あらゆる必然的帰結から逃げ戻る時代であると理解することができる。
この時代は何物も全部を引き受けようとはしない。
つまり、諸事物の有する自然な残酷さの一切をもひっくるめて全部を引き受けようとはしない。
近代のなす思考や活動の踊りは、まことに滑稽である。
なぜなら、この思考や活動は新しい形姿を見るといつも憧れに燃えて飛びついてはそれを抱き締めるのであるが、続いて突然、誘惑するラミアたちを抱こうとしたメフィストフェレスのように、慄然としてそれを突き放さずにはいられないからである。
かかる近代人の柔弱さからこそ現代の途方もない社会的危機は生じたのであるが、この社会的ききへの自然の本質に存する対抗手段として、私は敢えて奴隷制度を推奨したい。
たとえそれが今では人の印象を和らげる名称のもとにあるとしても、である。
奴隷制度というものは、原始キリスト教にとっても、またゲルマン的精神にとっても、なんとなく不快だと思われたことすらないし、ましてや忌まわしいと思われたことなどはない。
ギリシアの奴隷のことは措くとしても、中世の農奴を観察すれば──中世の農奴は自分より高く位置づけられた者に対しては、内面的に力強くかつ繊細な法的および道義的関係を保っていたが、かかる関係こそ彼の狭隘な生存を守る意味深長な詩的な垣根なのだ──なんと心を高める作用がわれわれにもたらされることであろう。
なんと心を高める──そしてまたなんとわれわれを咎(とが)めるような作用が!

<<引用ここまで。

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