トーテムとしてのロゴス?シャーマンの亡骸はどう?処理されたのか?

哲学であそぼー・シリーズです。
僕が、飽きたら、お終いになります。
全ては 「感性の無限の解放」 のために。

 

「言」 は、言の葉となり葉脈を持ち、筋を通す………………「律」 によって………………
ソクラテスの弁明は、書き写されなければならなかった?
なぜ?
わざわざ最初に 【その問題】 を霧の彼方へ押し上げ開始されたマルクスの無謀な行為は(経済学に本格的に向かう)、
なぜ?
現実は経済に全てを 【喜捨】 しなければ、他者との間合いを詰めれなかったのではないか?(喜捨って、積極的に笑いながら捨て去る、あるいは、捨て去ることによって他者の幸福をこい願う、と、読んでも結構ですぅ。僕としては、です。)
そうせざるを得ず、活字化しにくい体系を火山のように、なぜ?書きなぐったのか?
【書きなぐった】 のであり、決して洗練された規律(ヘーゲルのような)のもとで、法則どおり理論的に 【ぶち上げた】 訳ではないような気がする。
それを無理矢理、ロゴスとして切り離すことの中身とは何か?
自分でも、何を言いたいのか解らない、まさに、
入れ子の・喰らいんの・弩・壺になっているぅ。
つまり、
言説というのは、「説」 が付く限り、説き伏せる主体がつばとともに吐き出さずに、「つば」 を離れ、媒体に磔になる?
【はりつけ】 の死体をなぶって遊ぶ少年のようでハイ・デッカー!?

はははははははははははははははははははははは。

僕のマジック・ショーですがな。
以下、メンドーだから、旧字はやめちゃった。ごめんね。
一部テキストをなぶってありますから、お気をつけあそべ。
なお、《》内は、僕のカキコです。
あたまが、にっちゃ、ニチャ、だから、今から風呂へ入る。

 

ニーチェ全集 第三巻(第1期)
遺された断想(1869年秋-72年秋)
谷本慎介・清水本裕 訳
白水社

pp.390-393.

引用ここから>>

1871年 9[42]

遺された断想

さてそこで、わが国の劇場で上演されているいくつかの最も有名なシェイクスピア劇(ドラマ)の運命を考えてみることにしよう。
私は、観客の内の相当に教養のある人々がこれらのドラマに対してある奇妙な当惑を感じていることに、いつも気づいたのである。
かかる人々は皆、シェイクスピアとの親密で深い交わりから、これらのドラマに出てくるすべての言葉、すべての形象との心あたたまる意思疎通を得ているという意識を持っていたので、彼らがこれらのドラマを繰り返し新たに読むときには、自分は今さながら亡くなった愛する人々の霊のあいだを逍遙(しょうよう《アリストテレス?》)しているかのように、最も定かで最も深い記憶を次々と交換しているのだと思うのも当然であった。
しかしそれにもかかわらず彼らは、手にした「書物」とのこの交わりは、人為的に、それどころか不自然に媒介された影との交わりにすぎず、このような交わりは、舞台の上で繰り広げられるドラマ的現実を前にすれば、面目を失って色青ざめるにちがいないと予感していた。
この予感は──不思議な話ではあるが──そうした希望的観測によって自己を欺いていたのだった。
というのは、シェイクスピアの人物たちが登場する舞台を目の当たりにして生じたものは、
彼らの予想に反して先ほど述べたあの当惑だったからである。情感を揺さぶる俳優が、ひょっとしたら上演することに対する嫌悪となって、彼らの記憶の襞(ひだ)に貼りついてしまっていたのである。
人々は神聖冒涜のようなものを感じ、今やこの印象の原因を、演技の欠陥や俳優たちの側のシェイクスピアに対する理解のなさなどに求めようと努力する。
しかしうまくいかない。
なぜなら、最も真に迫った表現力を持つ俳優の口の端にかかってさえもなお、われわれの耳には深遠な思想が、比喩が、それどころか結局のところすべての言葉が、弱められ、萎縮させられ、神聖を汚されたように響くからである。
われわれにはこのような言語が信じられない。
われわれにはこのような人間たちが信じられない。
そしてかつてこのうえなく深い世界啓示としてわれわれを感動させたものが、今やわれわれの嫌惑すべき仮面芝居になってしまっている。
かくしてわれわれはもう一度書物に戻り、われわれにとっては印刷された言葉による不自然な媒介のほうが、具体的に目に映る事件進行(ハンドルング)の中でせりふとして話された言葉による媒介よりもいっそう自然であるように思えると、みずからに告白することになる。
しかしながら、ここでわれわれが、かつて寡黙な感動のうちに読んだものを一度みずから演技的抑揚をつけて声高に朗読してみるならば、われわれはまたもや、自分の朗読の仕方があの感動とは裏腹にまったく不適切であり、それどころか品位を汚すものであると思えてくることに、困惑せざるをえない。
その結果われわれは今度は一般に行なわれているパトスに満ちた一本調子の朗誦(ろうしょう《朗読とは違っている。》)へと逃げこみ、それによって少なくともわれわれの心の高ぶりにはこたえることができたと感じるのである。
さて、このパトスに満ちた一本調子の声の響きこそが、シラー劇の登場人物たちの物の言い方のすべてを、さらに言えばこれらの人物自体の大多数を、産んだ母胎にほかならない。
そしてこの事実でもってわれわれに与えられているのは、何としても押えることのできないわれわれの美的感覚は、あらゆる朗読法のうちで一本調子のパトスを最も高く評価し、これを朗誦文芸の模範的表現とみなすものだ、という保証である。
ところで、この、自然の中であらかじめ育まれたのでは決してない、まさしく本当に不自然なパトスとは何なのか?
それはある道徳的状態を表現するものなのである。
美的世界とわれわれ自身の現実との対立がわれわれの心情に刻まれるのは、何よりも先に、そして何よりも強く、道徳的感覚としてである。
すなわち、芸術世界の自然と比べてわれわれの世界は美的に不自然であるという感覚として、然り、われわれの本質は美的ではなく徹頭徹尾道徳的であるという感覚としてである。
美的な享受は、われわれの内面では何よりもまず道徳的高揚として現われる。
これはつまり、われわれは道徳的高揚があって初めて芸術を理解することを意味する。
したがって、われわれにおいては道徳的要求が芸術享受の形式について決定を下し、たとえばシュイクスピアの芝居を見に行くことを思いとどまらせたりする。
それというのも、われわれはあの道徳的な原享受《至高性かもしれん?》を、おのずから自分のために、はるかに純粋かつ強烈な形で産み出すことができるからである。
以上述べたことによって、われわれの現代芸術にとっては同時にまた次のような奇妙な命題が唱えられていることになる。
すなわち、芸術を愛好する公衆は何よりまずある道徳的な存在であり、ゆえに芸術家たちは、根本において芸術とはまるっきり関わりのない裁きの広場へ引き出されることを覚悟していなければならない、という命題である。
その際この公衆は、芸術的なものを芸術家たちの意志や志向や義務感などの動きによって理解する以外には、理解するすべをまったく知らないのであるから、きわめて非道徳的な存在であるとも言える。
確かに、今やもうア・プリオリに次のように主張することさえできるであろう。
現にあがめまつられている芸術家たちは、その崇敬をあの道徳的な基礎から得たの
であり、彼ら自身はまさしく道徳的存在として、また彼らの芸術作品は道徳的世界反映として享受されるのである、と。
こうした事実を最も明瞭に表現しているのは、現代という時代がリヒャルト・ヴァーグナーに対して示している態度である。
彼の音楽ドラマに向けられている熱狂は、同一の道徳的刺激から説明される。
つまりあれらの音楽ドラマが人を熱狂させるのは、上演されたシェイクスピア劇が人を幻滅させるのとまさに同じ理由からなのである。
すなわち上演された音楽ドラマは、単に想像されるだけの、すなわちピアノ編曲譜から空想するしかないドラマよりも、無限に強く道徳的パトスを刺激するからである。
かくしてかの音楽ドラマは、現代における公衆と芸術作品との完全な和合であることが判明する。
その根拠の数々こそが、今や探られねばならない。
──これらの効果の敵対者たちは、彼らが嘘をついているのでないかぎりは、ここでその説明が問題となっているあの道徳的本能の局外に立っているのである。

<<引用ここまで。

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