頭がゲシュタポになってきた。

「兵士ソヴィエト」 が頭を駆け巡る。
農魚狩は、兵自らが行い。蓄築養は、平民が行う。平民は先頭が激化したら、兵士に吸収される。
うーん、誰?の言葉だっけ?
ははは。←照れ隠し。
忘れた。
兵士の経験知を後生大事にしまって置いたら、人間が腐ってしまう。
に、人間が腐るぅ ↓。

なんだか、仏教用語で片付けたら、
とっても面倒なことになりそうな一説が、本を開くと出てきた。
もう、いいや!
って、思う瞬間です。
しっかし、
こんなもの 「よー訳した!えらい!」。
僕に褒められても、迷惑かもしれん…………

えっ?
なんだって?
かもしれん、じゃないって!!

はははははははははははははははははははは。

チラシや、ポスターを作らせなさい。
安いから。

ニーチェって人は、哲学より音楽評論家より文学をやれば良かったんじゃないかと思う。
別に 「解説」 は読んでいないけど、
ふと、
感じた。
ごらんなさい!
感性の無限の解放!でしょ!?

 

 

ニーチェ全集 第三巻(第1期)
遺された断想(1869年秋-72年秋)
谷本慎介・清水本裕 訳
白水社

pp.276-277.

引用ここから>>

7[一七四]〔「GT」のためのノート〕

論文の内容。

ギリシア芸術には二つの根本衝動が、つまりアポロン的衝動とディオニュソス的衝動が認められる。
両者の融合によって、悲劇的思想によるあらたな芸術形式が生み出されることになる。
この最高の芸術目的のためにギリシア的意志は、社会、国家、女性、神託として現象することによって奉仕する。
あの〔両衝動による〕二重性格は悲劇の仮面の表情に漂っているばかりではなく、悲劇そのものに刻印されている。
ドラマがおびていたこの二重性格を破壊したエウリピデスは、自分のドラマを作り出すためにソクラテスのデモーニッシュな影響力に縋(すが)る。
ソクラテスを始祖とする科学の目的は、天才(ゲーニウス)を準備するものとしての悲劇的認識にある。
あらたな芸術の境地はギリシア人には達成されなかった。
それはゲルマン人の使命だ。
あの悲劇的認識に刺激されて生じた芸術が音楽だ。
悲劇的認識に対するシェイクスピアの態度。
認識の目的とはしたがって美的な目的である。
認識の手段は幻像。
芸術の、生成の、数多性の世界としての仮象世界──根源一者の世界に対立するもの。
根源一者は苦痛および矛盾に等しい。
世界の目的は苦痛のない観照、純粋に美的な享楽にある。
それを満たす仮象世界は苦痛および矛盾の世鬼と対立する。
われわれの認識がより深く根源存在のうちに──われわれ自身がこの根源存在であるわけだが──進入すればするほど、根源一者の純粋な観照もわれわれのうちでより多く生み出されることになる。
アポロン的衝動とディオニュソス的衝動はたえざる進歩の途上において、一方が他方の境地を取りこむことによってより深い純粋観照を強制的に生み出させてゆく。
ここに人間の発展はあるわけであり、それを教育目的として捉えなければならない。
ギリシア的晴朗さとは一つの境地が達成されたときに得られる意志の快楽であり、それはそのつどあらたに生み出されてゆく。
ホメロス、ソフォクレス、『ヨハネ福音書』──ギリシア的晴朗さの三つの境地。
ホメロスは、巨人(テイタネス)族の恐るべき力に対するオリュンボスの神々の勝利のしるし。
ソフォクレスは、悲劇的思想の勝利、およびアイスキュロス的なディオニュソスへの隷属の超克のしるし。
『ヨハネ福音書』は、聖化の、秘教がもたらす至福の勝利のしるし。
ショーペンハウアーの課題の解決──無への憧れ。
すなわち、個人とは仮象にすぎず、個人が天才になることが意志の快楽目的にほかならない。
つまりその時には永遠に苦悩する根源一者が苦痛なしに観照することになる。
われわれの実在性とは、一つには根源一者の、苦悩するもののそれであり、もう一方ではこの根源一者の表象としての実在性でもある。
──意志のあの自己止揚や再生などといった事象は、意志が仮象そのものにはかならず、根源一者が意志という形をおびてのみ現象することによって可能となる。
道徳と宗教は、美的な意図という領域のなかに引き入れなければならない。
自由意志(活動性の、生一般の表象)──同情。
「実在性」とは不純な観照だ。
つまり苦痛と矛盾と観照が混ざっている。

<<引用ここまで。

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