懸想と仮相と。テレビと、ネットと。電気と毛布と。

懸想しつづける人類の 【仮想化隷属】 を 【下層化礼節】 と読み替えたりして………………

かろうじて開く眼で、行きつ、戻りつ、ある人物と僕との 【融合遺言】 を書いているみたいだ。
「墓場へ持って行く」 というのは、結構、厄介なものです。
他者の心情は、抉る物ではなく、
汲み取るものです?

ヤダヨー!
水洗哲学だもんね。

遺伝子の螺旋は弁証法じゃなかった、と、したならば……
DNAの雲を圧縮すると、DNA組成の繊維質になり、加工が容易だったりして……すっごい、ある人には技術的なアイデアなんだけど。

アイデアは、おしみなく、速やかに出し続け、
銭を持ってる奴が形にし、
早く資本主義を進めないと、革命が遠のくじゃあ、あありませんか!←隆明じゃない方の吉本口調で!

ははははははははははははははははははは。

果てしない陰毛……誤植、陰謀。
文明って、進んだのかね?
不思議だね。
眼が痛い。

経済学・哲学草稿
マルクス
城塚 登・田中吉六 訳
岩波文庫 ISBN4-00-341242-7

pp.89-93.

引用ここから>>

第一草稿

疎外された労働

………………
(彼の対象における労働者の疎外は、国民経済学の諸法則にしたがえば、つぎのように表現される。
すなわち、労働者がより多く生産すればするほど、それだけ彼はより少なく消費しなければならない。
彼がより多くの価値を創造すればするほど、それだけ彼はますます無価値なもの、ますますつまらぬものとなる。
彼の生産物がよりいっそう良い恰好になればなるほど、それだけ労働者はますます不恰好になる。
彼の対象がよりいっそう文明的になればなるほど、それだけ労働者はますます野蛮となる。
労働が強力になればなるほど、それだけ労働者はますます無力となる。
労働が知能的となればなるほど、それだけ労働者はますます愚鈍となり、自然の奴隷となった、と。)

国民経済学は、労働者(労働)と生産とのあいだの直接的関係を考察しないことによって、労働の本質における疎外を隠蔽している。
たしかに、労働は富者のためには驚異的な作品を生産する。
だが労働は労働者には赤貧をつくりだす。
それは宮殿を造営する、しかし労働者には穴ぐらをつくりだす。
それは美を生産する、しかし労働者には不具をつくりだす。
それは労働を機械に代えるが、しかしそれは、労働者の一部を野蛮な労働に逆戻りさせ、そして他の一部を機械とならせる。
それは知能を生産するが、しかし労働者には低能を、クレチン病〔白痴)をつくりだす。
労働の、その譜生産物にたいする直接の関係は、労働者の、彼の生産の諸対象にたいする関係である。
生産の諸対象および生産そのものにたいする財産家の関係は、この第一の関係のたんなる一つの帰結にすぎない。
そしてそれが真であることは確証される。
われわれはこうした他の側面を、のちに考察するであろう。
したがってわれわれが、労働の本質的な関係とはどういうものかと問うとき、われわれは労働者の生産にたいする関係を問うているのである。
これまでわれわれは、ただ一つの側面、すなわち労働者の、彼の労働の諸生産物にたいする関係からだけ、労働者の疎外、外化を考察してきた。
しかし疎外は、たんに生産の結果においてだけではなく、生産の行為のうちにも、生産的活動そのものの内部においても現われる。
かりに労働者が生産の行為そのものにおいて自分自身を疎外されないとしたら、どのようにして彼は自分の活動の生産物に疎遠に対立することができるだろうか。
いうまでもなく、生産物はたんに活動の、生産の、要約にすぎない。
したがって、労働の生産物が外化であるとすれば、生産そのものもまた活動的な外化、活動の外化、外化の活動でなければならない。
労働の対象の疎外においては、ただ労働の活動そのものにおける疎外、外化が要約されているにすぎないのである。
では、労働の外化は、実質的にはどこにあるのか。
第一に、労働が労働者にとって外的であること、すなわち、労働が労働者の本質に属していないこと、そのため彼は自分の労働において肯定されないでかえって否定され、幸福と感ぜずにかえって不幸と感じ、自由な肉体的および精神的エネルギーがまったく発展させられずに、かえって彼の肉体は消耗し、彼の精神は番廃化する、ということにある。
だから労働者は、労働の外部ではじめて自己のもとに〔bei sich〕あると感じ、そして労働のなかでは自己の外に〔auβer sich〕あると感ずる。
労働していないとき、彼は家庭にいるように安らぎ、労働しているとき、彼はそうした安らぎをもたない。
だから彼の労働は、自発的なものではなくて強いられたものであり、強制労働である。
そのため労働は、ある欲求の満足ではなく、労働以外のところで諸欲求を満足させるための手段であるにすぎない。
労働の疎遠性は、物質上またはその他の強制がなにも存在しなくなるやいなや、労働がペストのように忌みきらわれるということに、はっきりと現われてくる。
外的な労働、人間がそのなかで自己を外化する労働は、自己犠牲の、自己を苦しめる労働である。
最後に、労働者にとっての労働の外在性は、労働が彼自身のものではなくて他人のものであること、それが彼に属していないこと、彼が労働において自己自身にではなく他人に従属するということに現われる。
宗教において、人間的な想像力、人間的な脳髄、人間的な心情の自己活動が、個人から独立して、すなわち疎遠な、神的または悪魔的な活動として、個人の上に働きかけるように、労働者の活動は、彼の自己活動ではないのである。
労働者の活動は他人に属しており、それは労働者自身の喪失なのである。
以上のことからつぎのような結果が生じてくる。
すなわち、人間(労働者)は、ただわずかに彼の動物的な諸機能、食うこと、飲むこと、産むこと、さらにせいぜい、住むことや着ることなどにおいてのみ、自発的に行動していると感ずるにすぎず、そしてその人問的な諸機能においては、ただもう動物としてのみ自分を感ずるということである。
動物的なものが人間的なものとなり、人間的なものが動物的なものとなるのだ。
食うこと、飲むこと、産むこと、等々は、なるほど真に人間的な諸機能ではある。
しかし、それらを人間的活動のその他の領域からひきはなして、最後の、唯一の究極目的にしてしまうような抽象がされるところでは、それらは動物的である。

<<引用ここまで。

なんでか?
マルクスのだけは、気が付いたら直し続けます。

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