道徳の時間は教育勅語でもやるのかな?朕は珍しい苔を発見した、故に朕は国家でありあんたより上だ!?

ジャンバルジャンをやればエエのにぃ………

今日は、天気がエエ。
でもね、
なんだか、「道」 を外したような気がしている………
西洋哲学より民族小話の方が大衆的なのか?
テメエが拾える範囲を手短に拾い集め………それじゃあ、
コレクションじゃねえか、よぉ。とか、言ってみたりして………

言うだけです。パロール♪ パロル♪ パロール♪

今日の引用は、見事に 「冴えん」 のですが、エクリチュールとパロールの出所に、少しだけ関係するのかな?
文字にしてはいけない言い伝えと、文字にしなければならない禁忌があったんでしょうねえ………

考えてみるね。

「書かれた物」 にはデカルトが関与し、パロールとしての実体が存在しなかった、としたならば、なんとも尻がむず痒くなるのが、人類の恐怖感です。
痛さと恐怖感は、蜥蜴脳が共同性を追及しなければ生体維持が不能になった時の予備装置だと、僕は思うのです。
どーでも、エエですけど、蜥蜴脳だけ取り出して、純粋培養したら、エイリアンみたいになったりして………
ごめんね、
ふざけ過ぎですね。

でもね、明治大学のゴスペル問題とは関係ありません。断じて、ありませんけど………
なんで、
ユダヤ人って、人騒がせな連中なんだろう?
考えてみるね。

スピノザ
異端の系譜
イルミヤフ・ヨベル 著
小岸 昭/F.ヨリッセン/細見和之 訳
人文書院

ISBN4-409-03050-7 C3010

pp.21-23.

引用ここから>>

こうした思想がこの異端的な青年の内部でいつ頃成熟してきたかは不明だが、この過程はかなり早い時期に始まっていたに違いない。
破門からおよそ四年後、スピノザの最も重要な作品『エチカ』の第一部は原稿の形ですでに出来上がっていたが、そこには彼の汎神論の基本的特徴が含まれていた。
この思想によってスピノザは、ユダヤ教と同時にキリスト教とも、また一般に認められている哲学の伝統とさえも見解を異にしていることを表明した。
スピノザは既成宗教からばかりでなく、自由思想家や当時流行していた種々の哲学的理神論から見ても異端者だった。
理神論は、現実の外部にあって現実からかけ離れた哲学的な神性の名において、宗教を拒否する。
その神性は、現世の出来事には干渉せず、特別の摂理、懲罰と報い、掟あるいは儀礼とも何ら関係を持たない。
しかし、理神論の立場をとる異端者が、少なくとも現世には介入しない超越的な神性の存在は認めていたのに対して、スピノザはこうした思想を退け、神を宇宙の全体性と一体視していた。
要するに、スピノザは信心深い人々の間ばかりでなく、一般に異端者と呼ばれていた同時代の代表者たちの間でさえも異端者として頭抜けていた。
それによって彼は、同時代のあらゆる精神的主潮流から遊離していたのである。

スピノザの体系は、ほかならぬその成熟した形式において、哲学史上最も重要な体系の一つである。
スピノザは本来の意味での弟子を大勢持ってはいなかったが、彼の著作が近代において再刊されて以来、スピノザの世界観を度外視して哲学することは、全く不可能だと言ってよい。

アンリ・ベルクソンの言葉を借りれば、
「すべての哲学者には二つの哲学がある。自分の哲学とスピノザの哲学である」。
たとえば、ヘーゲルとニーチェといった正反対の精神が、スピノザを彼らの偉大な先達と見なしていたのは、偶然ではない。
というのも、スピノザの学説は、ちょっと見た目よりももっと複雑で、かつ多面的だからである。

だが、スピノザの倫理学と形而上学──彼の思想の精髄──は、彼が最初に成し遂げたものではなかった。
それらには、徹底的な宗教批判や宗教的文書への激しい攻撃、まずもって聖書への攻撃が先行していた。
そうした批判を書き記していた時、ラテン語に通じていなかった若き日のスピノザは、時代の外貌を変えてしまいそうな新しい科学的・哲学的著作をまだ読んではいなかった。
スピノザはデカルトの弟子たちとも、ロンドンの英国学士院の学者たちとも接触していなかったし、ホップスやマキアベリ、ガリレオなども知らなかった。
スピノザは彼の思想と宗教批判を、もっぱら同時代のユダヤ教の世界から展開していたが、そのユダヤ教の世界は、あるいは我々が今日想像しているよりもはるかに複雑で多面的だったのである。

文学作品はもとより、(主としてハインリヒ・グレ─ツに続く)歴史家たちも、スピノザの時代におけるアムステルダムのユダヤ人を、外界からのあらゆる啓蒙の火花には慎重に我関せずの態度を決め込む偏狭で熱狂的な連中だと描写してきた。
こうした描き方は正確ではない。あの時代、アムステルダムの共同体は最も文化が進み、かつ最も世界市民的な考え方を持ったユダヤ人共同体の一つだったというのが、真相である。
アムステルダムのユダヤ人街──東ヨーロッパの閉鎖的なゲットーとはかけ離れた世界──に住んでいた人々は、旧マラーノか、もしくはマラーノの息子たちで、彼らの大部分は寛容な国の内部で、割合自由な生活をしている羽振りのいい商人だった。
主に輸出入や他の形態の国際的な貿易業に携わる彼らにとって、非ユダヤ系の人々と交流することは何ら特別なことではなかった。虚心坦懐で、かつ感受性の豊かな彼らは、スペインおよびポルトガルの学校で教育を受け、あるいはその後アムステルダムの共同体自身の手で設立された輝かしい教育施設で薫陶を受けるかしたのである。

それと同時に、旧マラーノとしての彼らの経験は、決して終わることのない混乱の源だった。
こうした経験は、適応の困難さを招き、深刻な帰属意識の問題を引き起こす原因となるものだった。
このような背景を踏まえて、スピノザの異端性と同時に、その結果生ずる破門事件をも考察しなくてはならないのである。

マラーノはこれまで時として、「ヨーロッパにおける近代化の始まり」と見なされてきた。
たとえそこまで言わないにしても、キリスト教徒として教育されながら、その後ユダヤ教に復帰する道を選んだ者なら、どちらの信仰にも、一〇〇パーセント何の問題もなく帰属することができないというのは、明らかである。こうした人物がユダヤ教の共同体に改めて参入する際、途方もない困難に直面させられるのは、当然だろう。彼は元来そこに所属していたのだが、その共同体の日々の生活の営み、その至高の価値観と象徴は、彼の経験とは何ら接点を持っていなかったのだ。

キリスト教徒でもユダヤ教徒でもなく、その両者の間で分裂している者、あるいは両者が混在している状態の記憶を持っている者が、えてして両宗教に関する懐疑を発展させるか、あるいは宗教そのものの根底をも疑問視しがちであるのは、想像に難くない。ヨセフ・イェルシャルミが述べたように、驚くべきことは、マラーノがユダヤ教に復帰したことによって懐疑や異端が生じたということではなく、むしろ、マラーノの大部分が実際首尾よく規範的なユダヤ教の枠組みと再統合を果たすことができた、ということである。

いずれにしろ、スピノザの異端説を語る時、マラーノのなかに先例を欠いてはいなかった。「新ユダヤ教徒」という温床には、内部から不断の知的発芽を促す十分な原動力が含まれていたように思われるのである。

<<引用ここまで。

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