僕はインテリではないので、他人のテキストに語らせるんです。

PARADOX ALICE がどうして? 「スペース ミッション 2040」 という名前になるのか?
よー解らん世界である。
家族3人で観る様な映画ではない。
かといって、とおちゃん一人で観たら、ただのエロ映画みたいになってしまう………
3人の会話が面白い。
「これって、聖書を読んでないと、わかんないよぉ。」
「アイデアは、まあまあだけど、日本じゃ絶対に作れないね。」
「SFとしては、ヤナ映画だけど、聖書みたいでヲモロイやんか!」
「なんか、ガックシきてしまった。」
「まあ、いいんじゃないの。寝る前に観なければ。」
「ああ、仲間ゆきえのドラマより、怖くねえよ。」
「ははははははははは。おとうさんは、男だからねえ。」
「そうだね。男ってこんなものよ!」

僕、ゲロゲロ、ですぅ。

そこで、次の引用が、光る。

死にいたる病
現代の批判
キルケゴール
松浪信三郎+飯島宗亨(訳)

白水社 ISBN4-560-01885-5 C1310 P2300E

pp.240-241.

引用ここから>>

饒舌とは何か。
それは、黙することと語ることとの情熱的な分離の止揚である。
本質的に黙しうる者だけが本質的に語りうるし、本質的に黙しうる者だけが本質的におこないうる。
沈黙は内面性である。
饒舌は「本質的に語る」ことを先取りするものであり、反省の表明は先物買いによって行動を弱める。
しかしながら、黙しうるがゆえに本質的に語りうる者、その人は語るべき雑多なものをもってはおらず、語るべきものとしては一事だけをもっていることだろうし、また
「語るべき時と黙すべき時」(1)
をわきまえていることだろう。
饒舌は外延的に収穫する。
すなわち、それは可能的ないっさいのものを饒舌の種とし、ただひとすじにしゃべりつづける。
ある時代に、個々人が静かな満足のうちで、また心情の満足のうちで、すなわち宗教的な内面性のうちで、内に向かうのでなしに、反省の関係のうちで、外に求め、たがいに柏手に求めあうとき、そして個々人それぞれの運命の糸の末端をひとつの大づめでいっしょに結び合わせるほどのいかなる大事件もおこらなかったとすれば、そこに「饒舌」が入りこむ。
大事件が、情熱的な時代に語るべき何ものかをあたえる。
(なぜなら、大事件と情熱的な時代とは呼応する関係にあるから。)
そこでは、すべての人が同じひとつの事について語り、詩人たちはもっぱらそれについて歌い、談論はこの事ばかりを反響させ、行きずりにかわされる挨拶にふくまれることばもこの一事を指している。
関心の対象が、みなこの同一事なのである。ところが、饒舌はそれとまったく趣きを異にして、饒舌の材料を数おおくもっている。
また、情熱的な時代には、その大事件が過ぎて沈黙がおとずれたとき、ひとが黙していても、あるいは新しい人種がまったく別の事を話題にしていても、そこにはやはり想起さるべき何ものかがあり、思念さるべき何ものかがあっただろう。
しかるに、饒舌は、その空虚さをあらわにするであろうところの沈黙の瞬間を、身の毛もよだつほど恐怖するのである。

(1)〔訳注〕伝道の書第三章七節に「裂くに時あり、縫うに時あり、黙すに時あり、語るに時あり、e……とある。

<<引用ここまで。

もうすぐ、3.11だね。
祈ろうね。
せ、
せめて、
俗人に出来ることだけでも、しましょうよ。
(それ以外の祈りは、墓場へ持って行くように!)

広告
カテゴリー: 未分類 パーマリンク