オフェリアは、美しい水死体だったのか?

僕は、キルケゴールを 「読み」 始めると、必ず、ハムレットを 「読み」 たくなるんです。
まあ、
記憶のデーターベースってのは、頭の悪い人間には不思議な動きしか与えてくれません。
I・Q80ですよ!80!
どーしてか?解りますか?
よーい、ドン!って、言われると、背筋がビクッってなって、手がツルのです。
脳性まひ、とは、そういう障害です。
で、
です、
何が、「で」 なのか解りませんが、當然の結果として(ごめんなさい旧字の仕事が多いのです。)、シャーロック・ホームズへ行くわけです。
ああた!
それだけでも 「哲学」 ってのは、意味があるんです。
たかだか明治以降の日本の哲学とは違って、なんせ、「構築されしピラミッド」 があるわけですから、
まあ、
ガウディのサクラダ・ファミリアみたいなものでしょうか?
数学をもってしても、そう簡単に、3メートル以内に他人を寄せ付けない、連中です。
テメエらの都合のエエように、体系を再構築しては、脱していくのです。
概念の普遍性を求めて、言語を固定化するのを 「出来ない」 とすることによって、世界を 「認識化しえる対象物」 にしてしまうのです。
そこへいくと、吉本の 「解体」 には、武士道の残酷さが色濃いのかもしれません。
自立つったって、最初から 『無理ッ』 な存在のアウシュヴィッツは、どうしましょう?
「無名のヘレン・ケラーは、三銃士ではなく、三重苦であるという、苦の実存問題」 とか、糞とか、勝手に問題提起して、
自分で、放り出してしまう。
それが、匿名の絵草子、紙芝居型、テキトー、入れ子、の特権です。
ジェネリック・哲学は、卒業して、
次は、
なんのこっちゃ・哲学、にしましょう!

午前中はすべて睡眠。午後は、夕飯まで睡眠。
仕事が切れると、寝る。

ちょっとだけ煙草が手に入りました。
で、
考えたんですけど、
どーして?バレンタイン・デーや誕生日に、煙草が貰えないんだろう?
と。
ああ、
煙草をひっさしぶりで吸ったら、目が回り、吐きそうになった。
でも、
この 「小ブル感」 って、なんて、素敵なんだろうか!

以下、僕が気になったキルケゴールのテキストです。
どうして、この箇所が 「気になった」 のか?哲学してくださいな。

死にいたる病
現代の批判
キルケゴール
松浪信三郎+飯島宗亨(訳)
白水社 ISBN4-560-01885-5 C1310 P2300E
pp.145-147.

引用ここから>>

Aの付論 しかしそうすると罪はある意味できわめてまれなものにならないだろうか(道徳)

第一部のほうで、絶望はその度が強くなればなるほど世間ではまれにしか見られないものであるということを注意しておいた。
ところがここで、罪は絶望の度が質的にもういちだんと高まったものだということになった。
そうなると罪はごくまれにしか生じないことになりはしないか。
実に妙な難点である。
キリスト教はすべてを罪のもとにおく。
しかもわれわれはキリスト教的なものをできるだけ厳密に叙述しようとつとめてきた。
その結果、こういう変わった結論が出てきた。
罪は異教のうちにはむろんまったく見いだされない。
ただユダヤ教とキリスト教においてのみ、それもしかし、ごくまれにしか見いだされない。
という変わった結論である。

それにしてもこのことは、ただ一つの意味においてのみ、まったく正当である。
「ひとが神の啓示によって罪のなんたるかを知ったのちに、神の前に絶望して彼自身であろうと欲しないこと、もしくは絶望して彼自身であろうと欲すること」
これがすなわち、罪をおかすということである。
またたしかに、人間はこの定義が自分にぴったりあてはまっていると自分ではっきりそう思うほどまでに成長することはまれである。
しかしそこで、このことからどういう結果が出てくるであろうか。
その点に注目しなければならない。というのもこのところに独自の弁証法的転回があるからである。
人間が度の強い意味では絶望していないからといって、彼が絶望していないということにはならない。
反対に、さきにも示されたように、たいがいの人間が、否、ほとんどすべての人間が絶望している。
ただ絶望の度が低いだけのことである。
罪の場合も同様である。
たいがいの人間の生活は(それがどんな生活であろうとそれにはかかわりなく、またキリスト教界の内部ですら)、いうまでもなく、善から(信仰から)非常に隔っており、あまりに精神を失っているので罪ともいわれないくらいである。
けれどもそれで事がすむわけではない。
それはやはり罪である。人間の生活がそのように精神を失っているのは、どういう理由によるのであろうか。
それは人間がたまたまそういう目にあったというだけのものであろうか。
いな、それは人間の自分の責任なのである。
何びとも神を失ったまま生まれてくるわけではない。
いかに多くの人々が死に際して人生の唯一の収穫として精神喪失をたずさえていくことがあるとしても、それは人生の責任ではない。

……どうしても言わなければならないことだが(それもできるだけ率直に)、いわゆるキリスト教界なるものは(そこでは、だれもが、何百万という人々が、無造作にキリスト教徒である。
したがって人間のあたま数だけ、それだけキリスト教徒がいるわけだ)、ただ単に、意味の通じない誤植だらけの、そそっかしい落丁やおまけがやたらにあるなさけないキリスト教出版物であるばかりでなく、それはキリスト教という名の乱用でもある。
ひとびとはただわけもなくそれを受けとっているにすぎない。
小さな国なら、おそらく一時代に、詩人はせいぜい三人ぐらいしか生まれない。
しかし牧師はありあまるほどいる。
とても昇進させきれないほどだ。詩人の場合には、それが天職であるかどうかが問題になる。
ところが牧師になるためには、ひとびとの(したがってキリスト教徒の)意見によれば、試験にとおるだけでいい。
それにしてもほんとうの牧師というものは、ほんとうの詩人よりももっとまれなものである。
「天職」とは、もともと神的なものに属することばである。
だが、詩人たることについては、キリスト教界ではいまでもそれはたいしたことであり、天職を云々するのも意味があることだという考えを、ひとびとは失っていない。ところが牧師になるということは、ひとびとの(したがってキリスト教徒の)目から見れば、何もさして崇高なものではなく、ただあたりまえの生活のための職業であり、すこしも神秘的なところはない。
ひとは商人、弁護士、製本屋、獣医を「天職」とするように、牧師を「天職」とする。

キリスト教界におけるこのことばの運命は、キリスト教界におけるキリスト教そのものを示すモットーのようなものである。
不孝なのはキリスト教的なものが口に出して語られないということではない(したがってまた不幸は、牧師の数が足りないというような点にあるのではない)。
キリスト教的なものはしきりに口にされはするが、多くの人々はそれを聞いても結局は何も考えない(それは人々が牧師という名を耳にしても、ただある収入を得るためのある種の職業としか考えないようなものである)。
したがって至聖至高なるものも彼らにはなんらの感銘も与えず、彼らの耳には、その他の多くのものと同様に、いまではもはや(なぜか知らぬが)風俗や習慣になってしまったもののように響くだけである。
ここにいたれば、彼らが自分自身の態度を許しがたきものと考えるどころか、かえってキリスト教を弁護することを必要だと考えるとしても、なんらあやしむに足りないであろう。

<<引用ここまで。

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