明治維新に愛を込めて、蒼茫の惰眠?言っちゃ、駄目?

靑木文庫
226
明治維新のはなし
服部之總 著

引用>>

二 だれが徳川幕府をたおしたか?

1 下級武士革命論

それでは明治維新は階級闘争のいかなる段階をしめたか、という観点から、「王政復古」とよばれている過程のいとぐちを分析してみましょう。

明治維新は下級武士がおこなった革命であるという説を、みなさん読まれたことがあろうと思います。すべての変革を階級闘争としてみようというのがマルキシズムの基礎的命題ですが、どんな国のブルジョア民主主革命の歴史にも、封建的支配者団の末輩──下級武士が、その先頭にたってやったというようなブルジョア革命はありません。

日本の下級武士革命論をとなえる人は、すべていわゆる「維新革命」論者であります。大内兵衛氏らの、さっきあげた書物をみましても、やはり下級武士革命説を採用して、それをはなはだ苦しい言いまわしでもって、ブルジョア革命に結びつける努力が払われています。つまり、赤ん坊に大人の着物をきせたような一種のブルジョア革命だったという話です(『日本資本主義の研究』上、一九五-山九六、二〇一-二〇五頁)。

だいたい明治維新下級武士革命論なるものの出処を考えてみるに、維新の元勲といわれた人たち

──西郷隆盛とか大久保利通という人たちは、主君にお目どおりもかなわぬ薩摩藩の下級武士であります。長州藩をみても伊藤博文のごときは仲間(ちゅうげん)とよばれた足軽階級で、それも周防の百姓が租税をおさめることができないで村をすてて城下町の萩にうつり、そこで足軽の株を買って、しだいにとりあげられた人です。そして、わが国の尊王壊夷運動や倒幕運動──

これがやがて大政奉還となり、戊辰戦争となって、いわゆる明治維新になるのですが、その運動のにない手は、いま言った各藩の武士階級ですが、高杉晋作などはりっぱな高格の家柄で、薩州の志士もけっして軽格者と限ったものではありません。しかし軽格者には社会的矛盾もそれだけつよく感じられるし、数のうえから言っても武士身分の大多数は軽格武士からなっていたのですから、いきおい志士運動にたずさわった者が軽輩から輩出したということは、当然のことです。下級武士革命論はこのような「現象」にとらわれていますが、肝心なことをひとつ見落としています。それは、幕末維新の政治運動は武士ばかりでなしにブルジョアージーがこれと連合していたということです。

2 草莽浪士ということば

あのころの文献をみましても「草莽浪士」とかかれています。草莽とは百姓ということです。士農工商といいますが、この農工商の百姓出身の志士のことを草莽と漢学ふうにきどってよびました。浪士とは武士出身の志士のことで、政治運動に入ったために殿様から馘首され、または辞職して浪人となったものです。平野国臣は、浪士の典型ですが、筑前藩の足軽をやめて倒幕運動に一生をささげた人です。

草莽浪士というのは、文字の配列から判断しても解るように草莽と浪士の同盟の事実を物語っているものであります。そのなかで浪士の方は、長州藩の例でも、桂小五郎が維新後木戸孝允と名をあらためて、長閥の出世がしらとなるように、運動が成功すると、一世の支配者となり、明治時代の中心官僚になっているのです。けれども、桂小五郎らが春雨にぬれた東山三十六峰の活躍のあとをたどれば、けっして「下級武士」だけでできる芸当ではありません。金のある「草莽」すなわち.ブルジョアジーと提携して運動をおこしているのです。

安政の大獄の登場人物をみわたしてみても、薩藩の浪士、水戸藩の武士、その他各藩のいわゆる浪士がメンバーになっていますが、同時に草莽つまり庶民階級がそのバックにいるのです。若狭藩の浪士梅田雲浜は安政大獄のリーダーの一人ですが、「妻は病床に臥し、子は飢に泣く」という有名な詩のできたじぶんは、京都で浪人をして、塾をひらいていますが、この雲浜が最初の非合法的組織をつくった一人なのです。安政の大獄で拘引されるまえの雲浜は、もうちっとも貧乏ではなくて、烏丸御地のかれの住宅に来客があると、いつでも酒肴をだし、ときにはギオン町から舞妓をよんでもてなしたりする。わいろ一方でうごく公卿堂上をじざいに操ることもできている。雲浜の政治運動にもちいる政治資金は、みな雲浜の門弟たち──これが全国におりますが、この門弟たちというのが、いずれもみな商売人で豪商、豪農──からでていたのです。たとえば京都の郊外に川島村というのがありますが、ここにいる山口薫次郎という門弟は郷士で豪農でそして商人です。また大津の豪商鍵屋五兵衛も門人ですし、大和五条の木綿問屋の下辻又七は盟友です。また児島高徳の後裔といわれた備中連島の三宅定太郎は、これまた豪農で豪商ですが、雲浜とは安政三年いらい兄弟盃をかわしています。雲浜は一介の浪人ですが、門弟やいわゆる盟友にはこのように各地方の「草莽」がいました。

連島の三宅定太郎などは、六十余町歩の田地山林をもち、一方では金物屋をやっており、商人でもあったのです。だからブルジョアジーの側面

──といっても,まだ多分に商業資本買占資本の性質がつよいのですが──

ももっているわけです。こういう連中を門弟友人にもっていますから、たとえば大和にできる物産を長州にもっていって売ったり、長州の物産を大和にもっていって売る、というようにそのルートを雲浜がつけてやっている。長州藩に物資を売るについて、藩の官僚にわたりをつける世話をして、その利潤を政治資金としてとるというようにしていたらしいのです。しかし歴史上には雲浜一人が有名で、その背後のそのような土豪的「草莽」の事頃は蔭にかくれている。

また、万延元年の桜田門の事変では、水戸浪士が有名です。この浪士の背後にいたのは、水戸藩の有名なコンニャク・ブルジョアジーです。これは、最近わたしが知ったことですが、水戸浪士が桜田門にことを挙げるために、まず愛宕山の放送局の所へ集まるのですが、このときの軍資金は水戸からの使者がその朝とどけてきて、それは「一挙」をしとげた後の逃亡用の路銀ですが、ここでそれを分けるのです。ところで、その軍資金の出所はどこかといいますと、袋田温泉といって、水戸から水郡線にのって郡山にゆく途中、久慈川の沿線に袋田というところがあります。この地帯は有名なコンニャクの産地なのです。ことしはコンニャクでだいぶん儲かり、百姓が百円札を一尺以上もつみかさねて「一尺祝い」を祝ったという話をききました。コンニャクは、全国どこでもできますが、これをコンニャク玉のままで商品にすると、腐ってしまいますから、大量的な商品にはならないのです。ところが、水戸の袋田方面のコンニャクは気候の関係で、あれをホシイモのようにして乾かして、水車にかけて粉にしまして、粉コンニャクにするのです。それがあの辺から北では寒すぎるし、南だと暖かすぎてだめになるのです。

とにかく粉コンニャクにすれば腐りませんから、全国的に市場を持つことができるので、粉コンニャクにし、これを全国の市場相手に売り出していたのが、徳川の中頃からで、あらましのことだけ申しあげるのだが、大阪、京都など、関西の大都市も水戸コンニャクの需要地であったのです。ですから、およそ商品としてのコンニャクの全国的な量のなかで、水戸コンニャクのしめる割合は非常なものです。水戸ではコンニャク会所(これは半ば藩営)をおいて、その製造と販売は、藩が統制する。その製造は袋田の桜岡という「草莽」が一手にやって、コンニャク会所のカンバンはこの桜岡家の門にかかっている。百姓がつくったコンニャクの荒粉にしたものを、藩の命令で袋田にあつめ、大仕掛に水車小屋で細粉にして、特製の紙袋に包装して商品にする。藩ではこれを保護するかわりに、コンニャク会所から税金をとる。大阪方面では、羽州屋という家が関西方面の一手販売をしていました。桜田義挙の軍資金も、この桜岡家からでていたのですが、元治元年の水戸天狗党の軍資金も、おなじように桜岡家や羽州屋からでております。桜岡家の主人は、親子ともに天狗党のときには土地におられなくなって、旅役者に化けて越後方面で、道楽が身をたすける旅役者をして官憲の目をくらましていたのが、維新になって袋田にかえり、こんどは自由経済でますますさかんにコンニャク製造をつづけます。この桜岡家から、明治時代に代議士がでておりますし、美術学校の教授もでております。水戸コンニャクの詳細な研究は、袋田にちかい福島県塙の郷土史家、金沢春友さんが、多年続けておられます。

自由民権運動の支配的な地盤となっていた関八州地帯は、幕末尊攘運動の地盤でもありました。文久二年には坂下門事件がおこって、老中安藤対馬守を暗殺できずに、手傷をおわしただけでしたが、これは宇都宮藩士と水戸藩士が刺客となっています。この事件で、ちょうど井上日昭のような役をした男があった。これは、江戸でそのころの越後屋(いまの三越)とならび称された木綿問屋である佐野屋の女婿で有名な儒者だった大橋訥菴と佐野屋の当主菊地教中です。佐野屋の本家は宇都宮で、宇都宮方面の木綿織物業の総元締です。二人は坂下門事件の組織者であり、指導者でもありまして、兄弟とも、のちに獄中で死んでおります。このような例はいくらでもあります。

文久三年は、長州藩が外国の軍艦を砲撃したり、薩摩ではイギリス艦隊と戦争したり、八月十八日のクーデターによってかろうじて討幕運動の波を切りかえしたような年ですが、その文久三年の春、将軍家が京都に上洛したとき、示威運動として足利三代の木像をさらし首にした事件がおこっている。この事件に参加した連中も、各藩の浪人と草莽の一隊ですが、八・一八クーデターののち検挙され、明治維新で解放されるまで、五年間入っておって、解放と同時に新政府に仕え、関東の岩鼻県の知事となり、ついで鉄道事業視察のため英国に派遣され、もどってから明治七年の民選議員設立建白署名人の一人となった小室信夫という人、この人は旧名を利喜蔵といって、縞の財布がからになるといわれた丹後ちりめんの織元です。

このような例はたくさんあげることができます。こういったことをみましても、幕末のいわゆる尊王討幕の「志士」運動の主体は、草莽浪士といわれたように、庶民と下級武士の同盟体で、草莽の方が、二、三あげた例のようにうしろにおって、志士の方は弾丸となっていることが多いのです。このような草莽浪士の同盟によって、チャンバラもので知られているような血なまぐさい改革ができたのです。ところでその場合の草莽というのは何かということなのですが……。

<<引用ここまで。

ここから先は、「付箋」 と 「書き込み」 だらけで、判別しがたいんですぅ。
自分で線を引きながら、 何がなにやら解らない、という 「始末」 です。
じっと、『黙読』 しますね。
えっ!?
何が言いたいのか?ですって!

ははははははははははははははははは。

冗談は、理性だけにして!

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