なんだか娑婆が変だけど、僕もしょーこりもなく………「生活」って、一体何だろうか?

筑摩叢書 204
中世哲学の精神

E・ジルソン
服部英次郎訳
筑摩書房

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 このように歴史家たちが確認すると信ずる事実について、哲学者たちはその理由を説明しようとする。キリスト教哲学が歴史上かつて認められなかったのは、この概念そのものが矛盾を含んで不可能であるからである。このような意見をいだく人たちの先頭に立つ者は、純粋の理性論者ともよばれるべき人たちである。かれらの考え方は、まったく周知のことであるから、その影響が一般に考えられているよりもはるかに広範なものでなかったなら、あらためて述べる必要はないであろう。かれらの考えによると、宗教と哲学との間には本質的な差異があるので、両者の間にはどのような協力もまったく不可能である。かれらは、宗教の本質が何であるかについて、意見が一致するどころではないが、しかし宗教は理性の秩序に属するものでなく、理性の方もまた宗教の秩序に属するものではないということを主張する点では、みな意見が一致している。さて、理性の秩序というのは、まさしく哲学の秩序にはかならない。それゆえ、哲学は、それ自身でないすべてのものに対して、とくにこの啓示という非理性的なものに対して本質的に自立的である。何人も、今日、キリスト教数学、キリスト教生物学、キリスト教医学ということばを口にしようとは夢にも思わぬであろう。それは何ゆえかというと、数学、生物学、医学が科学であって、科学はその原理においてと同じように結論においても宗教に対して根本的に自立的であるからである。ところが、人びとが使う「キリスト教哲学」という表現は、それらとまったく同じように不合理なのである*。それゆえ、そのような表現は放棄するほかはないというわけである。

* L・フォイエルバッハ 『哲学とキリスト教』(全集第七巻四一-一〇九ページ)、同『キリスト教哲学の批判』(全集
 第七巻二二八-一五三ページ)。

 今日、新スコラ派の哲学者で、哲学と宗教との間には何の関係もないことを認める者は一人もないということは、あらためて述べるまでもない。しかしながら、かれらがつい先に述べた理性論とまったく対立的な立場にあると信ずる者があるなら、それははなはだしい誤りであろう。それとはまったく反対に、かれらは、他の次元においては、哲学と宗教との間の必然的関係をはっきりと主張しながら、その或る者は理性論の立論の前提を認め、また他の者は大胆にもその結論を認めようとさえする。これらの新スコラ派の哲学者は、どのキリスト教思想家も哲学を建設するのに成功しなかったということを承認しない。かれらは、聖トマス・アクィナスが哲学を建てたと主張するからである。しかしかれらは、たいして強要されなくても、聖トマスの哲学が唯一の例であることを*、それが唯一の例であるなら、

* P・マンドネ『ビュルタン・トミスト』一九二四年一三二-一三六ページ、同誌一九二六年四八-五四ページ。M・D・シュニュ 『ビュルタソ・トミスト』一九二八年二四四ページ。

それはまさしくかれの哲学がまったく理性的な次元において構成されているからであることを承認するであろう。それゆえ、新スコラ派の哲学者と理性論者とを分かつのは、原理に関する不一致よりもむしろ事実に関する不一致である。あるいは、両者の間に、原理に関する不一致があるなら、それは哲学の概念そのものに関するものではなく、哲学が諸学の位階において占める地位に関するものである。すなわち、純粋の理性論者が哲学を最高の地位に置いて、それを知恵と同一とするのに対して、新スコラ派の哲学者は哲学を神学の下位に置いて、ただ神学のみが完全に知恵という名に値すると考えるのである。しかしながら、何ゆえある新スコラ派の哲学者たちは、このように哲学を神学の下位に置きながら、かれらの哲学がその本性において、それ自身以上の知恵を認めない哲学とやはり同一であると考えるのであるか。このような態度はどうして説明されるのであるか。

<<ここまで。

*印の位置を変えても、論者の 「意向」 か、訳者の 「意向」 か解らない。
電子テキストの不気味さは、
「引用者」 と 「読者」 に全権が意図せずに与えられてしまう、ということかな?

ひま………僕にとって、OCRは、星飛遊馬の大リーグ・養成ギブスみたいな、そうでもないような………

おまえは、「引用」 のについての 「論点」 を何故?避ける?

はははははははははははははは。

怖いもの。

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