だからどうだ?というわけでもない。

こんなんを配っていた………御馬鹿な僕。60歳、いやでも現役。
喰うや、飲まずや………注射の後のパソコンの前で♪ そっと頭を抱え込む♪

引用>>

 精神の第一の現実性は、宗教の概念、いいかえれば、直接の、自然のままの、宗教である。そこでは、精神は、自然のままの直接の形態をした対象のうちにおのれを見いだす。第二の現実性は、自然を破棄した自己の形態のうちにおのれを見いだすものとならざるをえない。それがすなわち芸術宗教である。形態が自己へと高まるには意識が対象をうみだす必要があって、そうなったとき、意識は対象のうちに自分の行為と自己を見いだすのだ。第三の現実性は、以前の二つにつきまとう一面性を破棄したもので、自己が直接の存在になるとともに、直接性が自己となっている。第一の現実性において精神が意識の形をとり、第二の現実性で自己意識の形をとっているとすれば、第三の現実性においては両者を統一した絶対の存在という形をとっている。そして、精神が絶対の存在としてイメージされる宗教が、すなわち啓示宗教である。
 が、そこで精神が真の形態に到達したとはいっても、形態をもつものとしてイメージされるということが、なお不十分な側面をもつというべく、精神はさらに概念へと移行し、対立物をも内にふくむ概念のうちで、対象という形式を残るくまなく解体しなければならない。そうなったとき、精神は、わたしたちがいちはやくとらえていた精神の概念を、みずから把握し、概念となった精神の形態と存在の場とに完全に一体化するのである。

p.465

 精神は、意識に対峠する自分の形態を、意識をもつ形へと高め、意識をもつ人間を、精神のすがたとして造形する。職人は、思考の形と自然の形という、たがいに異質な形を混ぜあわせて合成する仕事を放棄し、自己意識をもって活動するような形態を作るまでになって、みずから精神的な創作者となっている。
 芸術宗教において、絶対の神を意識する精神が現実にどのような精神としてあるのか、と問うとき、真の共同体精神こそがそれだ、と答えなければならない。真の共同体精神は、すべての個人の生活を支える共通の土台であるだけでなく、その土台が、現実の意識にとって、意識をもつ人間の形態をとってあらわれているのだから、個体の形をとった共同体精神は、すべての個人によって、おのれの本質を形象化した作品だと受けとめられる。したがって、自己意識の自立が消えゆくはかないものにすぎず、はかなき現実界に君臨するのは形なき形だと見なされるような、光の神を真の神とはできないし、憎悪にかられた民族間の不断の食いあいを象徴する動物神や、民族をさまざまな階級へと分割し、全体としては完全な有機体の外見をもつが、内面の自由がどこにもないといった、抑圧の神を真の神とすることもできない。精神はいまや自由な民族として存在し、そこでは共同生活が万人の生きる土台をなし、そこでの生活のありようは、ありとあらゆる個人が自分たちの意志と行為にもとづいてなりたつと自覚できるものとなっている。

p.475

 傍観者の意識をもつコロス (合唱隊)が、中立の存在として舞台を支えるところに、精神が登場してくる。が、精神はもはや多種多様な存在にわかれるのではなく、概念にしたがって単純に二つにわかれる。それが共同体精神の基本型をなすが、この二つは同時に自己意識をもつ個人であり、二つの大義のどちらかをみずからの意識とし、それにふさわしい性格を備え、それを実現すべく現実に行動する英雄である。このように共同体精神を体現する個人は、すでに述べたように、生身の存在として現実に舞台上に登場し、多くの観客を前にして演技を展開する。観客たちは、コロスのうちに鏡に映った自分の像を、いや、自分自身の代弁者を見いだしつつ、演技を追っていくことになる。

精神現象学 ヘーゲル 長谷川宏 訳 p.496

<<引用ここまで。

どうです?
「粋」 な奴でしょ?

僕って!!

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