我思う故に我有り、の誤訳?

直感とは恐ろしいもので、不思議な謎の翻訳者と喋っていて、自分が学生時代に疑問に思っていたことを指摘された。
スピノザの「いきがり」についての問題で判明してきた。
そういえば、ルソーの「市民」ってのには、ある制約が確実に存在するんだ。
直筆から自分で訳してみたらいいのかもしれない。
ルソー=近代的民主主義の始まり、なんて形式主義的な概念を捨ててさ!
間違っても、翻訳物から始めては駄目である。
本当の事を言うと、パリかその周辺に2ヶ月ぐらい滞在して、大学の図書館かどこぞの洒落たカフェに居座ってじっくり原書で読んで、初めて「読んだんだ」って言えるような、そうでないような。
夢なんですけどね………
そういう旅行企画を売り込まれたら、買ってしまうかもしれない。
誰も訪れないジョルジュ・バタイユの墓参りをしたりして………
あっと、言っておきますけど、私は渋沢先生の翻訳でバタイユに傾倒した訳ではないですから。
本の付録についてきたバタイユ本人のマダムエドワルダの朗読の美しさに憧れただけですから。
汚いものを綺麗な言葉の流れでさらりと表現するって、いいと思いませんか。
さすが、おフランス!なんちゃって。
関係ないか?

それで、偽リベラリズム似非民主主義について考え込んでしまった。

<個>の意識の分散化=標準化に対して、<知>のレベルが追いつかない現状ってのは、一体何故だ。

存在すること(ただ生きているだけ)が個性の保証ではなく、知=個 であるような、ないような。
市民社会という理由なき選民主義の当然過ぎる帰結としての現在とは何か?

<知>が思索とは無関係に存在する外部記憶の魑魅魍魎について、どう解釈するか?
うーん、つまり思索と数学的知識の混同をどう解決するのか?
「知識」の不毛さに気づかない他者にどうやって対応するのか?

計り知れない「入れ子」への恐怖を感じたことはないですか?
言葉を玩具のように使うことを教えてくれたのは、他ならない人類そのものなんですよ。

メビウスの環ではなくて「入れ子の環」みたいなものに引掛かって、喉に魚の骨があるみたいで、気持ち悪いんです。

と、まあ、馬鹿は馬鹿なりに思索するわけですよ。

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